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ご府外東京散歩#03/新田の開拓が近郊農家の人構造を変えていった

家康は、江戸入城にあたって、数万の武士と、先ずは小田原商人を引き連れていた。農民は、そのまま"原住民"を我がものとした。小田原商人に次いで、入ってきたのは伊勢商人だった。日比谷入り江が埋め立てられ、周辺の干拓と整備が進むと、京・堺の商人たちも家康の命令によって次々と新開地に入植してきた。彼らは何を商ったか。関東・東北の物産、材木/石目特産部/海産物/乾物などだ。そして多くは「下りもの」上方で作られた様々なものだった。江戸は彼らによって・・関東人ではなく異邦人によって見る間に埋め尽くされていった。入植したのは農民漁民はほとんどいない。大半が商人と職人、そして武家だった。もちろん例外はある。大川を仕切った摂津村・佃村の漁師などは例外だ。

では、実際にどのくらいの人々が江戸に入植し増えていったのか?江戸の人口については、色々と資料が残っているが、実はよくわかっていない。・・たとえば、よく引用される文献として、天保14年(1843)の町方支配場所、寺社門前地、出稼人合せて58万7千人というものがあるが、これもその通り武家は含まれていない。おそらくは、これと同数程度の武士とその家族はいたであろうと思われるので、この時期の江戸の人口は100万人程度だったろうと凡そで云われているだけだ。実数は判らない。

それでも言えるのは・・江戸城を中心に四方10㎞未満の所におそらく100万人程度の異邦人が住んでいたということだ。たとえば・・都市を維持するための日常必須物資の流通可能商圏を四方50kmくらいまでに求めたとしても、人口の大半は中心部に集まり、なおかつそれが異邦人によって構成されていたというのが江戸の特長だと云える。
江戸周辺地・原住民(農民)⇔江戸中心部・異邦人(武家・商人職人)という構造。これは現代でも変わらない。

ところがこの棲み分け構造は次第に壊れていく。
江戸の人口が膨れてくると「下りもの」と「近郊郷地」との取扱品目/量が、圧倒的に後者へ傾いていったからである。
古くから土地に根付いていた人々の生産量では江戸を賄いきれなくなっていった。同時に水田だけではなく畑作による生産物も希求されるようになっていく。多摩丘陵などの周辺農業地帯での新田開発が、初期は水田一本やりだったものが、次第に畑作へ替わっていたのは、水利の問題だけではなくこうした新しいニーズの発生が原因だったに違いない。
江戸幕府は当初から新田の開墾を強力に推し進めていた。中心は官製である代官見立新田や藩営新田だったが、これに付随して民間人が領主の許可を得て開発する土豪開発新田/村請新田/百姓寄合新田などが精力的に行われた。
しかし官製以外にはどうしても資金的限界がある。そこで幕府は日本橋に立て看板を立てて、商屋に開墾者を求めた。幕府は開墾への投資者に厚遇策を保証した。そのため、多くの豪商がファンドを組んで新田の開発に参加した。実は、こうした町人請負が総反別の約1/3を占めていたのである。
新田開発は当初、とても儲かる商売だった。新田の開墾は減価償却を済ませると毎年1割ほどの利潤を生むからだ。優秀な投資案件だったのだ。

・・ところで、町人請負田畑は圧倒的に畑地の開墾が多かった。代官見立新田は水田が圧倒的に多かったことを考えると、これはとても面白い特徴だと云えるだろう。水田には年貢というファクターが間に挟まれるが、畑地の場合は開発費も収穫による利益も、税もすべて貨幣で処理されるからであろう。

こうした偏りで面白いのは、新田開発の「水田」「畑作」の比率である。
官製の代官見立新田や藩営新田が中心の利根川荒川周辺は水田が圧倒的に多い。一方、武蔵野台地や多摩丘陵で行われている新田開発の多くは畑地として開墾された。野火止用水や玉川上水などの傍らでも新田は「水田」ではなく「畑地」だったのだ。これは投資家である中央の商屋の意図を大きく含んでいたからであろう。
しかし・・新田開発には常にまとわりつく大問題があった。それは「では新しく出来た水田/畑地はいったい誰が従事するのか?」である。

宮崎克則氏の著に「逃げる百姓、追う大名 : 江戸の農民獲得合戦」というものがある。
同書の舞台は九州豊前の細川領だ。新田開発は、結局のところ労働力の流動化をもたらした。そのため、
生まれ育った村を捨てる百姓たちが多く出た。領主はその「走り」農民を追った。しかし実はそうした村を脱走した農民を優遇で迎え入れる領主たちも多くいたというのだ。
江戸時代は、農民の移動などを厳しく禁じていたと、よく言われるが、逆に厳しく禁じなければならないほどより良い働き場所を求めて遁走する農民が多かったということだろう。
こうした従事者の確保というニーズもあって、新田開発には多くの武家も参加している。武士からは沢山の帰農者が出た。刀を捨てて郷士になった人々である。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました