甲州ワインの謎#08/東京と呼ばれていたユダヤ人街・開封
ここでひとつ、気になることがあります。
『列王記』に書かれた新バビロニアのネブカド・ネザルのことです。BC586年です。
https://www.amazon.co.jp/%E5.../dp/4895862194/ref=sr_1_5...
その『列王記下24:10-14』にこう書かれている。
「そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。」
そして、このネブカドネザルがエルサレムから奪ったものについては「ソロモンは主の神殿に置くためのあらゆる祭具を作った――金の祭壇、供えのパンを載せる金の聖卓、内陣の前に左右に五つずつ置かれる純金の燭台、金の花、ともし火皿、火ばし、純金の皿、芯切り鋏、鉢、柄杓、火皿、また神殿の奥の間すなわち至聖所の扉と外陣の扉のための金のちょうつがい」。『列王記上7:48-50』とある。
実はこの一覧に「契約の聖櫃Ark」がない。
アークは、ネブカド・ネザルの侵略以前に持ち出されていたのです。だれが持ち出したのか。そして持ち出されたアークは何処へ消えたのか?これは大きな謎です。このことを頭に止めながら、話を進めましょう。
ところで。最初から余談ですが・・北宋は都を4つ置く四京制を敷きました。東京開封府、南京応天府、西京河南府、北京大名府です。ユダヤ人街のあった開封を"東京"と呼んだのです。今でもこの地を東京と呼ぶ人はいる。
この「ユダヤ人が住む街・開封のことをヨーロッパ社会が知ったのは17世紀に入ってからです。
発見者はイタリアのイエズス会司祭、マテオ・リッチでした。リッチは、禮拜寺と呼ばれているシナゴーグがあったとバチカンに報告しています。https://kknews.cc/history/a6xprkj.html
・・このときの開封の名前は東京だったんです。面白いですねぇ。江戸の呼び名が東京に替るとき、西の京に対する東の京だったのか、それとも薩長のスポンサーだったユダヤ財閥の意思だったのか・・闇の中ですが、興味深いです。
https://www.arachina.com/.../china-museum/kaifengshibwg.html
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました