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ジンファンデルの話09

ロッキー山脈を越えた向こう側、カルフォルニアは今でも"アメリカの中の異国"ですが、19世紀半ばまでを俯瞰すると、如何にこの欧州大陸の真裏に有る地域が"経済圏"として、欧州から隔絶されていたかがよく見えてきます。あまりにもロジスティックが遠い。
西回りで考えるならば、欧州各都市を出た海運ルートは大西洋を南下し、ドレーク海峡かマゼラン海峡を越えて太平洋に入り、米西海岸伝いに延々と北上してくるしかなかった。パナマ運河というショートカットが誕生するのは1916年です。
一方、東周りは更に遠く、欧州各都市を出た船はアフリカ大陸を迂回し、喜望峰を越えインド洋を抜けてマラッカ海峡から太平洋に入り、それを渡って来なければならなかったのです。こちらにスエズ運河というショートカットが誕生するのは1869年です。

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前回、ちょっと触れましたカルフォルニアにおけるヨーロッパ種の栽培、メルロー・カベルネなどの農園を商業的に成功させたのは、ハワイ諸島からの移住者でした。
ハワイ諸島は、サトウキビ・プランテーションの島としてフランスとイギリスによって開拓されていました。ここで作られた砂糖は西回りで延々と時間をかけ欧州へ運び込まれていたのです。そのサトウキビ・プランテーション農家が、自分たち用として葡萄畑を持っていた。使用されていた葡萄の木、は前述の東周りルートでハワイに持ち込まれたものです。
1840年代になって、カルフォルニアへ太平洋岸から持ち込まれたヨーロッパ種の葡萄の木はこれでした。それまでは、スペインの修道士が持ち込んだミッション種しかなかった。ロッキー山脈から向こう側で飲めるワインと云えば、ミッション種から作ったものしかなかったのです。
ミッション種から作ったワインは不味い。多産で沢山実の成る葡萄ですが、ワインは酷い味でした。ハワイからの移住者たちが作ったメルロー/カベルネ系のワインが爆発的な成功を収めたのは肯るかなというところですね。

伝搬ルート的に見るならば。
西海岸各地に有った廃修道院の畑(メキシコ政府が追放したスペイン人修道士たちが建てた修道院跡)を利用した(一番最初はLA東部に有ったもの)ワイナリーが植えたメルロー/カベルネ種は、急速に株分けされて西海岸を北上していきました。
そしてカルフォルニアが合衆国に移譲されると、北米東海岸北側のニューイングランドの農家が多数新天地を求めて移住してきます。彼らもまた廃修道院の畑を買い求め、そこにハワイからの移住者が持ち込んだメルロー/カベルネ種を植えた。LAより北側のナパ・ソノマを開墾したのは主に"ニューイングランダー"と呼ばれる彼らでした。
そしてその移植者の集団の中に、ドイツから移民してきた農家たちがいた。これは間違いない。
ドイツからの来た移民者たちはエリス島を通った後、そのまま既にネブラスカ州オマハまで繋がっていた東部鉄道網を利用して同地に至り、ここから先は馬車で"ニューイングランダー"と同じ経路で、険しいロッキー山脈を越えた。1869年に大陸横断鉄道が開通するまで、全ての東部からの移植者たちはすべてこの道を辿りました。

僕は、フィロキセラに感染していない"純"なジンファンデルを1950年代に持ち込んだのは、彼ら「ドイツからの移植者」ではないかと推論してしまうのです。ハワイルートではない。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました