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堀留日本橋まぼろし散歩#12/外堀・呉服橋御門外

外堀・呉服橋御門外は旧い町だ。家康さんと共に江戸湊に入った人々が、とりあえず地面が有ったところに居を構えたことから始まっている。少しずつ日比谷入り江が埋め立てられて江戸前島が拡大すると、そこに町が作られた。
基本的に同じ職業の人々が集まって一つの町を為した。この構造はそのまま長く残った。

たとえば元大工町(いまの八重洲一丁目・日本橋二丁目)はその名の通り、築城のための大工(番匠)が住んだ。大鋸町(いまの京橋一丁目)は大鋸職人、南鞘町(京橋一〜二丁目)はと刀剣の鞘を作る職人、具足町(京橋三丁目)には甲冑を作る具足師が住んだ。南鍛冶町(八重洲二丁目・京橋二丁目)は鍛冶の国役。北紺屋町(八重洲二丁目・京橋三丁目)には染物の国役。畳町(京橋二〜三丁目)には城内の御畳師。檜物町(八重洲一丁目・日本橋三丁目)檜物大工棟梁が住んだ。檜物とは薄く削った片木板をたわめて筒形にして作る樽のこと。檜物/綰物/まげワッパともいう。日常生活用具は檜物師によって作られていた。
日本橋が開墾によって整地され、上方の大問屋が店を並べるようになっても、その裏街である旧い地区は職人の町として残った。日本橋は日本橋通一丁目〜四丁目と町名がつけられ、ここが上方と江戸を繋ぐハブとなって行った。
「夢二が港屋絵草紙店の開店案内に"下街"と書いた理由はこれさ。外堀・呉服橋外は裏通りなんだ。町としてみると、蔵が並ぶ地域だった。華やかさはない町だった。それは明治の御代に入っても同じだったんだけどね、少しずつ変わっていったのは、明治の終わりころから日本橋にある大店へのサービス業が増えて言ったからなんだ。
今の八重洲1丁目・日本橋2丁目3丁目辺り、檜物町は花柳界になった」
「倉庫街は無くなったの?」
「いや、残った。蔵が並んでいる八重洲河岸から細い路地をぬけて中通りに立つと、右の一廓が数寄屋町、左の一廓が檜物町だった。日本橋の花街は駿河町から品川町、稲荷新道、元大工町、数寄屋町、檜物町、佐内町に散らばって有った。中で中心だったのが数寄屋町と檜物町だったんだ。黒板塀がならんでた」
「ぜんぜん、イメージできないわ」
「ん。関東大震災ですべて燃え尽きて、その上に先の大戦で再度灰燼と化した。戦後は、大手企業以外は殆ど首のすげ替えで入れ替わっちまったんだよ。色街を支えた小商いも大半が変わって今に至る。それでも八重洲の裏通りには昭和の字が有ったころには未だその色香は残っていたけどな。平成・令和と進むとその色香も怪しくなっている。此処を歩いていても、僕の知ってる店は数えるほどもない」
僕らはさくら通りから八重洲仲通りを歩いていた。御多幸にくる時しか通らない道だから、嫁さんはきょろきょろとしていた。
「この辺が檜物町だったの?」
「うん。おおまかにはな。夢二が自分の作品を鬻ぐための店を出した街だ。そして泉鏡花の小説『日本橋』の舞台になったところだ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました