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ナダールと19世紀パリ#21

1870年9月3日。ナポレオン三世がプロイセン軍に敗れ、捕虜になった知らせを聞いた時、妻ウジェニー皇后が烈火のごとく怒った。
「なぜ自決しなかったのよ!死ねば良いのに!」死ねば英雄として名を残し、息子であるルイ皇太子がナポレオン4世が継ぐ。そしてナポレオン家は守られる。ウジェニー皇后は歯ぎしりをして悔しがった。
もともとナポレオン三世に、強い参戦への意思が有ったわけではない。世論に押され時代に押されて始めた戦争である。ましてや自分が戦地に赴くつもりなど欠片もなかった。しかしウジェニー皇后と側近に強要され嫌々赴いた戦場である。惨敗を繰り返し、身に危険が及ぶと、早々にプロイセン王ヴィルヘルム1世のもとへ降伏の旨を伝えている。

1870年9月4日。パリに暴動の火の手が上がった。即日パリ市庁舎は「共和制を!」と叫ぶ人々に占拠され。パリ軍事総督だったルイ・ジュール・トロシュ将軍による共和政臨時政府を樹立した。ウジェニー皇后は騒乱の中をイギリスへ遁走した。
ナポレオン三世による「第二帝政」はただ一夜で崩落したのである。

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、ナポレオン3世を「ルンペン・プロレタリアートの首領」と罵倒したマルクスは、1871年に『フランスにおける内乱』を書いている。この中で彼は「帝政は公共の財産を浪費することにより、また金融詐欺を助けることにより、資本集中の人為的促進を助けて大多数の中産階級を収奪し、彼らを経済的に破滅させた。帝政は彼らを政治的に抑圧し、また宴会騒ぎで彼らを道徳的に怒らせた。彼らの子供を無知な教団に引き渡して、彼らのヴォルテール主義を侮辱した。そして彼らを戦争へ導くことでフランス人としての民族感情を激昂させた」と記した。マルクスは、民意の代弁者/プロレタリアートの仮面を付けた腺病質なナポレオン三世が大嫌いだったのだ。

ある意味、彼ほど成果を残しながらも嘲弄されたリーダーは珍しい。実は、パリには彼のモニュメントも、彼の名前を冠した広場も通りもない。あるのはルーブルの中の彼の居室と執務室だけである。
在位中ナポレオン三世は「スフィンクス」と陰口を叩かれた。無口/無表情な上に決断するのに異常なほど時間がかかり、なおかつ決断したことには異常に執着した。君子豹変できぬ男だったのだ。内臓疾患を慢性的に抱え込み、海外生活が長かったためにフランス語が下手で、会話もつまらなかった。彼自身、そんな自分の欠点を知悉しており、その劣等感から病的なほど多淫に走った。

大衆は英雄を望み、立て囃し褒め称える。そして次第に揶揄し始め欠点を挙げ連ね、そして最後は石持って追う。現代では、ごく当たり前になったこうしたことの、一番最初のターゲットがナポレオン三世だったと言えよう。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました