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厳密な"論"としての、マナーとモラル

今朝は嫁さんと代々木に出かけた。その途中で、しばらくぶりに「車内化粧」地下鉄の中で見た。 「車内化粧」が減ったわけじゃなくて、僕が公共交通機関に乗らなくなったせいだろう。きっと減ったわけじゃないと思う。 で。色々と考えてしまった。

発生論的な視線で見ると「車内化粧」は、おそらく帰校時の女子高生が、次のフェーズに入るための武器装着の場として、学校Aから別フェーズBの間の移動手段である交通機関の中を利用するようになった・・ことから始まったように思う。恐らく前世紀の終わりころからではないか?もし知見をお持ちの方が居られるようなら論を俟ちたい。 その彼女たちが、社会に出るようになって普遍化した。成人女性も「車内化粧」をするようになったのではないか?と思う。
もちろん、それ以前は「車内化粧」が、皆無だったかというとそうではない。戦前の記事を集めた本の中にも「車内化粧」をしてるオバサンの話が出てくる。しかしその論調は鉄面皮なオバサンがやっていること・・というものである。うら若い女性の話ではない。となるとやはり若い女性が「車内化粧」を"普通に・当然に"始めるのは、前世期末からではないか?そう思ってしまう。

「車内化粧」をマナー違反だという論が有る。
日本語のマナーという言葉。おそらく英語のmannersが語源だろうが、ま・いつもの通り日本語的拡大解釈が絡まって、意味が不明瞭になっている。英語的に考えるならmannersとは、ルールに則った態度・立ち振る舞いを指す。根底にあるのは対象となる慣習についての共通認識だ。例えるならば、レストランでのテーブル・マナーなどが考えられる。日本語の場合、少し拡大解釈気味に「他者に不快な思いをさせないこと」とされる。 たしかに「不快にさせないこと」はmannersの必要条件だが、それだけではない。mannersとは、他者を不快にさせないためにルールに則った態度・立ち振る舞いを具体的に定める。 もし「車内化粧」をマナー違反だというならば。ルールの明文化・確立が必須だろう。僕はそう思う。
ただ単に「他者を不快にさせない」ことがマナーだというならば、不快になるかどうか他者の問題なので、何が「マナー違反」なのか、厳密な規定が出来なくなり、あやふやになる。ある人はそれをマナー違反だと良い、ある人はそれを許容範囲だと言い出す。

一方「車内化粧」をモラル違反だという論が有る。
モラルも、おそらくmoralが語源だろう。英語のmoralは、道徳的な・道義的を指す。つまり法的な拘束力はないが、社会的な視線から善悪の判断を指す。日本語的モラルは、もう少し抽象的概念に絡んでいて、道徳・倫理・良識の有無を指す。
そのため"モラル"は、世代を跨る共通認識に成り難い。道徳・倫理・良識は、時代と共に変化してしまうからだ。通時的・共時的に成立しているモラルは、モラルそのものの性格上、存在しない。つまり「年寄りのモラル」と「若者のモラル」は、たいていかい離してしまうものなのだ。
さあ。大変だ。
こう考えると、「車内化粧」をマナー違違反としても、モラル違反としても捉え難くなる。
違う切り口から見なければならなくなる。

一歩下がって考えると・・車内化粧をマナー違反・モラル違反とする眼差しは、根底に「対他」というものについて、きわめて近しい認識を保有している者同士の間でしか成立しないのではないか? 僕はそう考えてしまう。
これは、個人とっての"他者"は、共通認識であり、共用言語であるという前提である。・・ここです。
この前提が成り立たないのならば。・・車内化粧している女性たちと、我々は(少なくとも私は)"他者"というものについて、共通認識がない・・という結論に達してしまう。これは深刻な結論だ。
つまり知り合い以外の他者は、人でさえない。他者とは`私"を知っている者であり、私を知らない他者は"モノ"と同じ。モノの前で何をしようと、それを恥ずかしいとは思わない。・・ということなんだろうか。

しかし・・もしかするとここに僕の認識欠陥があるのかもしれない。
つまり、それは"恥"というものについての認識だ。人前で化粧すること・・それを恥としないという認識だとすると・・この知見は成立しなくなる。
では、人前でショーツを穿きかえることは恥としないのか? まるで爆発するように哄笑することは恥ずかしいことではないのか? 手をパンパンと叩きながら大笑いすることはtvでタレントがやってるから、ファッションとして許されることなのか? 実は「恥の文化の変質」そのものが大きく起きているのか?
これは真剣に考えるべき課題だ。
和の文化は「恥」の文化だ。恥は他者への恥と己への恥がある。・・その他者への恥が変質したのか?? いまの子にとって「他者」とはなにか??

ヒトは、世界を「客体認識している」としてきた。世界は、自分がそこに居なくても自立して存在する。これは素朴だが疑いようのない実在論であり、それが思索の根底にあるはずだ。
なぜ自分の外に、客体的に"世界は有る"とするか。
欧州の場合、ヒト(アーダームー)は"神"より心も体も与えられしものとする。ヒトは"知"を得たことで、個たる人(アダム)となり。そしてその複数の個の集まりが人々になる。世界とは、人々の集合体であるとする。これはそのまま単純だが、強力な"神"を仰ぎ見る客体的な世界認識となっている。つまり人の心(精神)と存在とは、神の前で対立するものではなかったのだ。


一方、こうした原始的な実在論に対して、世界の成立根拠を客観的な実在に置かず、あくまで意識と意識に映ずる表象に求めるという考え方もある。内省論、懐疑論、観念論である。産業革命前夜に生まれてきた考え方である。
それは"我"を見つめる視線であり、カント→へ―ゲル。そして対立することによって亜流を為したキルケゴール/ニーチェ/マルクスたちがもたらしたものだった。ニーチェは神までも殺してしまった。
しかし彼らは全員、産業革命を知らない。 モノを量産する方法のシステム化が、ヒトに何をもたらすか知らない人々だ。まるで灌漑技術が如何ほど人の心と在り方を変えてしまったか、知らないままにいた原始人の世界観。それと同じ立ち位置に在る。
人間の認識領域は「見えるもの」だけである。人は洞窟の中に生涯暮らし、外界は洞窟の壁に写る陰でしか慮れない。つまり人は、時間や空間などは構造は直接認識できない。その内的存在物(即ち現象)によってそれを認識するしかない。“認識力の限界”が、人なるもの限界である。それでも。。例えば、電波だが。見えなくとも厳然と存在することを我々は知っている。まさに客体認識している。そして19世紀後半から加速的に起きた技術進化は、そうした目に見えないものを駆使する方法を幾つも可能にした。

電話・TV・電子レンジ・インターネット等々。人々は見えないまま、それを"在るもの"とし、その恩恵を被っている。テレビのリモコンを弄れば、TVのチャンネルは変わるが、なぜ変わるかは知らない。電卓のボタンを押せば、自分の代わりに計算をしてくれるが、なぜ計算が出来ているかは知らない。
つまり20世紀とは「なぜか理由は知らないけれど、ある呪文を唱えれば、ある所作をすれば、願いが叶う」時代。神話世界に突入した時代として捉えると、その神話世界で生きている人々の心の構造が見えてくるのではないかと、僕は思っている。

たいていの人は、たとえばインターネットが小さなガジェットの超過多重的な組み合わせで、物理的・機械的に成り立っていることを「知っていながら」忘れている。インターネットは、まるで空気や光のように遍く漂っているもののように捉えている。 20世紀後半から、この神話世界が、より拡充し精妙になった。 実はこの神話世界の確立が、世界を「客体認識している」という原始的実在論と、内省論、懐疑論、観念論の垣根を壊し始めているのではないか。僕はそう思っている。

で。ようやく話が初めに戻る。 「車内化粧」についての対立は、は、実はここに、本質的な原因があるのではないか?と僕は思ってしまうのだ。世界認識が、一部の人々の間で、より神話世界に入り込み、今までの原始的実在論からかけ離れた。神話世界を背景とするものになったためではないか。 そう思ってしまうのだ。
僕らはいま、「神話時代」に突入している。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました