3月10日の記憶/欄外・1月27日銀座泰明小学校#02
その日、東京を襲った56機のB29は、府中にある中島飛行機を爆撃するためにマリアナ島から飛び立った74機編隊の一部でした。
指揮をしていたのは、3月10日の真夜中、人々が自宅に戻って寝静まった頃を狙って、徹底的な焦土作戦を仕掛けた男、カーチスルメイでした。
彼らは曇天で攻撃目標の中島飛行場が視認できなかったために爆撃を諦めて引き返す所だった。その帰還途中、置き土産替わりに搭載していた250kg爆弾を東京の空でばら撒いていったのです。
少しすると再度、空襲警報が鳴り響きました。橋本先生はもう一度、曇天の空を見つめた。やはり機影は見えません。でも雲の間から、その霞を破るように黒いものが無音のまま、まるで鉄の雨粒のように広がるのが見えました。そしてその無数の黒い豆粒が、みるみるグレーに変わり斜めに落ちてきた。
「・・爆弾だ。爆弾が降ってくる。爆弾だっ!」
橋本先生は、そう怒鳴りながら屋上から校舎に飛び込み、職員室へ階段を駆け下りました。その瞬間、校舎が衝撃で揺れました。猛烈な轟音と震動。橋下先生は階段を転げ落ちそうになった。壁が割れ、窓ガラスが吹き飛び、粉塵と破片が校内に舞った。職員室の目の前で、落ちてきた250kg爆弾がさく裂したのです。
そのとき、最初の警報で地下室に避難していた6人の女性の先生たちが、夫々の仕事を続けるために職員室へ戻っていました。その6人の前で何の予告もなく250kg爆弾がさく裂したのです。衝撃で窓枠は吹き飛び、職員室に爆弾の破片が打ち撒かれました。そして、衝撃で窓際に置いていた写真看板のガラスが幾万・幾数十万の破片になって部屋中に飛び散った。爆風が職員室の中を駆け回り、すべての什器と机が、轟音と共に宙に舞い、崩れ落ちた。
橋本先生が職員室へ飛び込んだとき、室内は粉塵に霞み、猛烈な爆発音のせいも有って、静寂に包まれていた。だれもいない。そう思った橋本先生は、自身も負った傷を抑えながら玄関へ走った。先生たちが避難しているはずの地下室を確認するためです。
玄関に並べられている靴箱は全て乱雑に倒れていました。その靴箱の下敷きになってゴソゴソと動く人がいる。校長先生でした。橋下先生は、靴箱を持ち上げて校長先生を助け出すと、そのまま用務員室と地下室へ飛び込みました。
誰もいない。もぬけの殻です。
どこへ行ったんだろう・・不審に思って、橋本先生は玄関に伏せている校長に声をかけてから校庭へ出ました、崩れ落ちた通路側からではなく、校庭側から職員室に入ろうとしたのです。そのとき職員室から血だらけになった中井先生が、フラフラと出てきました。
「ああ!よしよしっ。」と橋本先生が抱きかかえた。そしてそのまま校庭脇の玄関まで運び、静かに床に寝かせました。それから橋本先生は駆け足で校庭側から職員室に向かいました。室内を霞ませていた粉塵は収まってきていた。しかし床は無数のガラス片でジャリジャリでした。崩れそうになっている書類棚事務机の残骸を避けながら、部屋の中に入ると崩れた什器の下から揺れる白い手袋をした手を見つけました。「た・たすけて」という、か細い声がする。猪俣先生でした。橋下先生は、急いで什器の下から猪俣先生を助け出しました。
そのとき「大丈夫ですかっ!」と、青年学校の先生や警防団の人たちが何人か、職員室に駆け込んできた。
「他にも先生が!埋もれてます!!」橋本先生は怒鳴った。
耳を澄ますと・・呻き声が聞こえてきます。でも瓦礫と化した部屋の中から、探すのは大変だった。ようやく家具の破片の中から江尻先生を見つけたとき、橋本先生は「江尻さん!しっかり!」と声をかけました。「はいっ!」と江尻先生は返事をしました。生きている。
「ああ、まだ生きている。早く病院へ!」江尻先生は、校長先生と中井先生が寝かせられている校庭脇の玄関口に運ばれました。
残り2人の先生の捜索はそのまま続けられた。しかし見つかったのは、無残な姿でした。爆心から5mも離れていなかったお二人は即死だったのです。
中井先生と江尻先生は、警防団の人たちによって担架で病院に運ばれました。一番近い病院は亀岡病院です。ところがその時、亀岡病院も直撃弾を受けて凄惨な事態になっていたのです。仕方なく二人の担架は聖路加病院へ向かいました。中井先生も江尻先生も、出血多量で瀕死の状態でした。それでも途中通りかかったトラックに載せてもらって、なんとか聖路加へ運び込まれたのです。しかし手当ての甲斐無く、江尻先生は亡くなられてしまいました。一命を取りとめた中井先生も2週間以上、危篤の状態が続きました。
泰明小学校は、関東大震災の時に全焼しました。その経験から東京市は災害に強い小学校を目指し、堅牢な、そしてモダンな小学校を市内に幾つも建てました。泰明はその中の一つです。壁も普通よりは厚く、設備は災害時のために全て堅牢に作られています。
その学校に250kg爆弾が三発、直撃したのです。確かに全壊はしなかった。しかし授業を再開できるような状態ではなかった。それに追い打ちをかけるように、その年の五月に実施された米国ルメイ将軍による東京焦土作戦が、銀座を燃え尽くし、泰明も近在の朝日新聞ビルなどと共に、ターゲットにされて全焼してしまいます。
戦争が終わって子供たちが帰ってきても、学校は授業再開できる状態にありませんでした。なので泰明の子供たちは、銀座教会の中に設けられた臨時教室で、暫くの間、授業を受けました。それでも昭和21年の卒業生は、写真だけでも校舎で撮ろうと、崩れ果てた校舎を背に、校庭で卒業記念写真を撮っています。
泰明の空に鉄の雨が降った日。そんな日が有ったことを、泰明の子らさえ知らないようになってほしくない。私はそう思うのです。まだ77年です。我々の父母・祖父祖母の時代です。そんな昔の記憶ではない。
もちろん鉄の雨が降ったのは泰明の空だけではありません。無辜の命が多く奪われている。たとえば、お話の中に出した五丁目並木通りの亀岡病院ですが、ここも直撃弾を受けて、夫人と子息が亡くなられました。瓦礫の下から婦人はモンペ姿の下半身だけが見つかり、ご子息の片腕は80m位離れた銀座湯の煙突に引っかかっていたそうです。
沢山の人の思いと出会いと、そして懸命に支えた努力の上に、今はあるのです。それを享受するだけではなく、感謝し敬う心を失なってはならないと、私は思います。そのために「泰明の空にも鉄の雨が降った日」が有ったことを、私たちはぜひぜひ子供たちに、伝えていきましょう。
最後に、同日の消防署の調査データを転載します。
①20年1月27日
13時3分 警戒警報発令
14時0分 空襲警報発令
14時3分 空襲
15時10分 空襲警報解除
15時20分 警戒警報解除
②来襲機数
B29 70数機
③攻撃方法
米来襲機は伊豆半島を北上、京浜地区に侵入し、5編隊に分かれ13時50分頃より15時に至る間、爆弾、焼夷弾を混投の上南方海上に退去す
④投下弾
爆弾(205kg)124個、焼夷弾・小型油脂約1200個、大型黄燐56個
⑤気象
天候曇り、風位北、風力軟、湿度77%
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました