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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#02

2月25日の石川手記である。
「2月25日日曜日吹雪
今月はまるっきり休みなく日夜敢闘の連続だったので、今日の日曜日は洵に申訳ないがゆっくり
朝寝させて貰おうと思っていると、午前7時半警戒警報発令。東部軍管区情報を聞くと、敵機動部
隊大挙本土空襲とのこと、とても寝ているどころじゃない、飛び起きて先ず病める3人の愛娘を防
空壕に運び入れ、食糧や食器類を運搬してから水槽にポンプで水を満水にしたり、急に忙しくなってきた。斎藤医師夫人が子供2人を連れて防空壕へ避難させて呉れと言って来られた。間もなく敵艦載機の爆音が無気味に聞えてきた。
空を仰いでも早朝から雪空で敵機影は判明しない、急いで朝食をかっこんで東横線都立高校駅まで走る。午前7時40分空襲警報が出ていたが、10時10分解除となる.
警視庁に出勤。その後の情勢を防空本部室に至り調べたところ、B 29 152機が本土に近接しつつあり、午後1時半頃侵入する公算大との事、その頃から街頭は吹雪になっていた。」
この日のB29の攻撃目標は三鷹駅の北方にあった中島飛行機武蔵製作所だった。ところが当日、天気が悪く関東地方は雲に覆われていた。そのため目視による中島飛行場爆撃は不可能であると判断された。しかし出撃そのものは中止にならなかった。出撃命令を受けたのは第22爆撃機団所属の73,313,314の三航空団。当初の中島飛行機製作所が悪天候の場合、攻撃目標を東京都内とするという命令も併せて出されていたからだ。・・この都内への焼夷弾爆撃については「Meetinghouse」という暗号名が付けられていた。
天候不良のため中島飛行機から都内焼夷弾投擲指定地区「Meetinghouse」に変更されると、搭載爆弾についても急きょ変更が為された。当初製作所の破壊が主目的だったので通常の500lb爆弾を搭載していたが、これは各機1個ずつ。そ以外は全て焼夷弾へ変わった。これらを東京の下町区域全体にばら撒いたのである。
このとき搭載された焼夷弾は「ナパーム弾M69」という。米軍によって開発された投擲用焼夷弾だ。重さは通暁爆弾と同じ500lbである。
ナパーム弾について1943年国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部が「住宅密集地域に焼夷弾を投下して⽕災を起こさせ、住宅と⼯場も⼀緒に焼き尽くす最適の爆撃⽅法である」という報告を出している。これを受けて1943年2⽉15⽇にアメリカ経済戦争局は「⽇本の都市にたいする⼤規模攻撃の経済的意義」という報告書を出している。この報告書内で、東京における「焼夷弾攻撃地域/有効地域」として選定されたのは浅草区/本所区/神⽥区/下⾕区/荒川区/⽇本橋区である。この地区が「Meetinghouse」という暗号名で呼ばれたのである。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました