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葛西城東まぼろし散歩#17/江戸より古い下総04

「家康の利根川東遷事業は1594年に始められ、1654年までかかった。大河を動かすという一大事業だ。目的は江戸を1000年都市にするためだ。」
「成功したの?」
「ん。おおむね・・な。大河の移遷は地勢を大きく変える。成功という言い方をすれば、可もあり不可もあるな。東京湊に流れ込む大河を荒川だけにしたわけだが、おかげで水豊かだった江戸は慢性的な水不足になった。そのうえ、一度大雨が有ると河は氾濫し江戸は水浸しになった。今でも東京が水不足で悩むのは、家康の利根川東遷事業のせいだ」
「でも、利根川を東へ動かしたおかげて、江戸は広く干拓が出来たわけでしょ?・・だけど、というわけね」
「そうだ。もっと甚大な影響を受けたのは千葉と常陸の国だった。香取の海が消えてしまったんだ。茨木側にある霞が関や印旛沼だけになった。」
「大混乱になったんじゃないの?」
「ん‥実は、でもない。房総は、家康が秀吉から渡された支配地だった。北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総が家康のモノになった。だから最初から房総地区は天領として徳川家が管理していた。旗本領と幕府の直轄地そして譜代大名が支配していたんだ」
「徳川家の直轄地だったから、利根川東遷事業で大きく土地が変わってしまっても大事件にならずに対処出来たというわけね」
「そうだ。大都市の周辺土地は得られるものも多いが。犠牲になるものも大きいということさ。
千葉は・・家康の利根川東遷事業で、香取の海が後退した。そのため土地は乾いた。ローム層むき出しの地になった。乾けば粉塵となる。関東の空っ風に晒されて、千葉はこれが砂嵐となって人家も馬牧も畑も砂に覆われるようになったンだ。

・・どのくらいで、そうなったかというと・・家康の利根川東遷事業が始まったのは1594年。ちなみに家康が江戸に入ったのは1590年だ。彼が亡くなったのは74歳の時1616年。東遷事業は遺志を継がれて続いた。一応の完成を見たのは1654年だった。つまり60年ほどで、千葉は激変に晒された、ということだ。60年だ。親子二代だ。千葉は水利豊かな湖水地帯から、粉塵が一年中舞う乾いた土地になったんだ」
「すごい話ね」
「水が引けば、生活圏を保持するために新田開発へ幕府直轄の旗本や代官が精力的に動いた。しかしローム層は地味そのもの(火山灰)が薄い。これを稲作に転換するのはムリなんだよ。今でも千葉と言えばピーナッツだろ?ピーナツが千葉に入ったのは明治時代からだが、ピーナッツはやせた土地に育つ数少ない作物なんだ」
「なるほどね。それで千葉と言えばピーナッツね」
「八街が有名だが、八街には"八埃/やちぼこり"という砂嵐がある」
「知ってる。目が開いてられないくらい凄い砂嵐・・」
「江戸時代、ピーナッツはない。だから千葉の新田は麦と畑作が中心になったんだよ。地味の薄さを補うため草木灰を積極的に堆肥として利用した。それと人糞尿と厩肥な。馬牧を利用したんだ。・・草木灰の中心は落ち葉だ。関東平野は日本でも珍しい平地林だからな。その落葉樹を堆肥として積極的に利用したんだ」
「平地林ってなに?」
「山地に対比して平地だ。平地や台地に生える樹木だよ。日本列島は欧米と違って大半が山間部だ。欧米は平地林が多いが日本は少ない。コナラ・アカマツ・クヌギなんぞが代表かな」
「平地林って初めて聞いたわ」
「だな・・関東は平地林の落葉樹を堆肥として積極的に利用した地だ。千葉はこれに準じた」
「悠久から房総を支えてきた香取の海が、たった60年で消えてその後の激動から今の千葉は生まれたのね」
「ん。今はいなくなった千葉のおばちゃんたち。大きな荷物を抱えて行商に来ていたおばちゃんたちに繋がる時代の重さを感じるだろう?
・・僕はいつも思うんだ。家康の江戸を1000年王国にしようという夢・・欲。その欲に泣かされる人は必ずいる。千葉はそれを背負った。
よく"引き寄せ"とか云うだろ。スピリチュアル系の商売をする奴らは。強く願えば叶うってさ。アレを連想させる」
「夢は欲ということ?欲は必ず誰かを不幸にするということ?」
「できれば・・そうでない夢を・・あるいはその影響を、悪い方で受ける人をどうフォローできるか?想い馳せられるといいね。房総を直轄として精力的に開発に尽力した徳川のようにね。・・ま、陣笠風情にそんな心をもつ者は稀有だが」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました