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ワインと地中海#61/シラクサ散歩09

https://www.youtube.com/watch?v=ppI9hEQKYDw

博物館を出てアウグスト通りをクルマは直進した。すぐに道は公園にぶつかった。
「ここがアルケオロージコ・ネアポリス公園Archeologico Neapolisとして設備されたのは、戦後でした。1952年です。考古学的な発掘は1800年代には既に始まっていたのですが、シチリアそのものがイタリアの政治構造に巻き込まれて、長い間、政情不安だったため、調査は何回も分断されて100年以上放置されたままでいました。それが戦後になって外資からの資金援助を受けて再開したのです。いまの形に整ったのは30年ほど前位からでした。私が生まれたばかりのころです」
「僕は成人して、世間にもまれていたよ」
「ははは♪さあ・・まず円形劇場から見ましょう。チケットは私が買います。お土産屋を見ていてください」
目の前にperco archeologico Neapolis TEATRO GRECO BIGLIETTERIA BAR SOUVENIER WCという黒い看板が有った。チケットセンターにならんで、色々なお土産屋が並んでいた。
「おまたせしました」
アンドレアに付いて僕は中に入った。すぐにすり鉢状のAnfiteatro Romanoが見えた。
「この辺りはコッレ・テメニテと呼ばれる山岳地帯・最東南部になります。紀元前7世紀ころからシラクサで使われる家屋や石造物は、すべて此処の石灰岩を削って使用していました。そのため300年ほどかけて、この辺りは大きな掘削地になっていたんです。その跡を利用して円形競技場は建造されました。少し離れたところにあるギリシャ劇場の講堂とデル・パラディーゾと呼ばれる大きなクアトミースも同じです。シチリアを手に入れたローマ人は、本土のように軍用道路の敷設に熱心でした。彼らはパレルモからカターニャを経由してシラクサに繋がる道を作るんですが、その片方の先端にこの円形劇場を置いたんです」
彼に案内されながら僕は席状になっている階段をゆっくりと降りた。
「ローマが失速してモスレム時代になると、ここは放置されました。その時に経済の中心は島の北側に移るんですが、シラクサは急速に沈滞しました。その時期、放置されたローマの建造物は、建築材として石材が大量に此処から持ち出されました。いまは上部にあったと言われる建築物は何も残っていません。その跡が残っているだけになってしまいました」
アンドレアは闘技場の中央を指さした。
「競技の広場は覆われていました。真ん中に大きな長方形のスペースがあって、地下通路を介して入口通路の軸上にある記念碑の南端と接続されていたようです。そして剣闘士の控室に繋がる開口部・屋根付きの廊下が繋がっていました。いまは残骸とくり抜かれた穴が有るだけです」
アンドレアは階段状の席に座ると、僕にも座るよう促した。
「Anfiteatro Romanoが作られたのは、おそらく西暦1世紀半ばあたりから建築されたと思われます。
どうしてというと・・キケロの記述です。アルキメデスを恋慕したキケロ(BC106-BC43)は、シラクサについて詳細な文章を残しているんですが、そこにはAnfiteatro Romanoは一つもないんです。つまり、彼の時代にこの競技場は無かった。ローマの記述者で、ここについて語るのはタキトゥス(AD55-AD120)からです。そう考えるとやはりアウグストゥス時代に建築されたとみるべきでしょうね。いまでもこの円形闘技場を囲んだ壮麗な大理石の欄干は粉々な破壊の残骸として、劇場の中にちらばっています
おそらくこの円形闘技場は、アウグストゥスがローマ帝国を支配していた頃、彼がローマの国威発揚のために建設したのだのでしょうね。そのためにローマは、きっととんでもない剥奪をシラクサの民に行ったと思います。シラクサにとって、イタリアはいつでも厄災そのものだったわけです」


闘技場を出て、隣のヒエロン2世の祭壇の横を通った。今は石畳しかない。
「この祭壇は長さ200メートル幅は20メートル以上あったそうです。今は解体されて、石壁はシラクサの建物になっています。実はヒエロン2世の祭壇と呼ばれていますが、作られたのはBC400年ころのものです。
この先にあるのが、アルキメデスの墓です。もちろん本当にアルキメデスの墓ではありません。ローマの支配下に入った後に作られたものです。そうとう立派な墓なので、きっとアルキメデスだろうと言われて、そう呼ばれるようになった。実際には、アルキメデスは死後、キケロが彼の功績を讃えるまでは、完全に忘却されていましたから、墓は何処に有るか判りません」

このアンドレアの話に捕捉すると・・キケロはは彼の著書「論争Tusculanae」でこう書いている。
「クァエストルである私は、シラクサ人がその存在を否定していた彼の墓が完全に囲まれ、イバラや藪で覆われていることに気づきました。私は彼の墓に書かれていたと言われているいくつかのセナリを思い出しました。彼らは、円筒の付いた球が墓の頂上に置かれていたと言っていました。ある日、私は目で隅々まで調べていました(シアンの神聖な扉の外には、たくさんの墓があります)。そして茂みからあまり突き出ていない小さな柱が見えました。その上に球のイメージがありました。シリンダー。私はすぐにシラクサ人たち(最も著名な人々が私と一緒でした)に、これが私が探していたものだと思うと伝えました。多くの人が鎌を持って送られ、その場所は掃除され、片付けられました。アクセスが許可され、台座の正面に近づいたところ、最後の部分に向かって詩句が腐食した警句が見えました。」

「キケロはアルキメデスの墓を見たといってます」アンドレアが言った。
「しかし、いまアルキメデスの墓と云われるものが、彼の見たものとは明らかに違うものです。今ある墓は、はるか後代になって作られたものです。今は名も知れなくなった金持ちだった商人の墓でしょう。
私は、祖父に連れられて子供のときに、これを見ました。祖父は熱くアルキメデスがシラクサ人であることを語っていました。祖父はこの墓がアルキメデスのものだと思っていた。私もそう思っていました。」
「祖父というと・・90歳くらい?」
「はい。数年前に亡くなりました。94歳でした。祖父はナチスと戦ったシシリアン・レジスタンスでした。この公園は、祖父にとって戦後の荒廃から立ち上がって、シチリアにようやく再興のときが来たことのシンボルだったようです。祖父は、この公園で虐げられた時代のことを話していました」
「レジスタンスのこと?」
「はい。私にとっても、この公園とシチリアの再興はとっても強い繋がりがあります」
「・・なるほど」
https://www.amazon.co.jp/Tusculanae-Disputationes-Marcus-Tullius-Cicero/dp/1657954617

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました