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東京ことば散歩#1-1/始まりは軍事特需から01

朝鮮戦争とベトナム戦争の軍事特需は、日本国に急速な高度成長時代をもたらした。その猛烈な経済構造の変動は日本の全てを変えてしまった。各地で特需に絡む色々な地場産業が台頭した。もちろん、所詮あだ花である。特需が過ぎれば凋落する。その凋落の真っただ中に今日本経済はいる。地方駅前に並ぶシャッター商店街はその象徴だと言ってもよいだろうね。

都市部をみると・・いや、此処では東京だけをみよう。東京をみると・・ふたつの戦争がもたらした軍事特需は、猛烈な人口流入を誘発し、東京という街を巨大化させた。戦後のベビーブームによって台頭した「団塊の世代」が大量に東京へ流れ込んだのである。東京で働く人たちは、急速に東京出身の人たちばかりでなくなっていったのである。こうした流入はご朱引き内(東京23区)だけではなく、通勤可能な近郊都市にまで及んだ。近郊都市が、東京で働く人々のためのベッドタウンとして大きく姿を変えていったのだ。

実はこの大きな潮流の中で、同じように多くの原東京人ともいうべき人々もまた住まいを郊外へ移している。まさに70年代80年代の東京は拡大/拡散の時代だったわけである。
ではどうだろうか?その大きな潮流から半世紀が経ったいま、郊外へ移り住んだ原東京の人々/その子ら/孫たちは、自分たちを移り住んだ地域の人間だと思っているだろうか?はたして「私は埼玉人/千葉人/神奈川人」と思っているだろうか?行政的にはその通りで、その土地の小中学校へ通ったかもしれないが・・意識的にはどうだろうか?僕は、東京人のまま・・なのではないか?と思う。どうだろうか?僕は首都圏近郊都市に暮らす人々に聞きたい。あなたは東京人ですか?
おそらく・・はい東京人です!と、はっきり言い切るのは移住第一世代だけかもしれない。第二世代/第三世代は言い淀むかもしれない。しかし「あなたは首都圏人ですか?」と聞き直したとすれば、きっとはっきりと「はい!首都圏人です」と応えるだろう。行政区分を越えて拡散化した"東京人"は、50年の時を経ていま新しいフェーズ"首都圏人"に有るように感じてしまうのだ。
この稿のテーマは、この「首都圏」人のことだ。

首都圏人・・聞きなれない言葉かもしれない。あまりこうした言い回しをする人はいない。しかし「首都圏」という言葉はある。1956年に制定された首都圏整備法は「首都圏とは、首都とその後背地とを含めた一定範囲の地域。日本では、東京駅を中心に半径一五〇キロメートルの範囲に含まれる、東京・神奈川・埼玉・千葉・茨城・栃木・群馬・山梨の一都七県の地域をいう」1978年に制定された「第三次全国総合開発計画」では「東京圏とは、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県をさし、その合計人口は約3340万人(2000)、面積1万3514平方キロメートル、人口密度1平方キロメートル当り約2470人」としている。
では、そこに住む人々すべてを「首都圏人」として十把一絡にしていいのかというと、そうはいかない。この3514平方キロメートルの中には、古くから土地に根差した在の人も郷の人もいるからだ。となると・・ポイントはやはり路線だろう。上野・池袋・新宿・渋谷から走る私鉄・JRの沿線が首都圏「人」を見定めるキーワードになると僕は思う。この稿では、その首都圏人なるものへの向かう時代の動きと生成過程を追ってみたいと思う。
実はですね、この"首都圏人"という言葉、個人的にはとても好きだ。Metropolitae populo・・良い響きだと思う。古代ローマの匂いがする。ローマもラテン人だけの街ではなかった。ドーナツ化現象を起こすとともに他地方のから市内への移住が絶え間なく続き、街は大きくなり、今度は逆に街の中で醸し出された混成文化がスタンダードとして各地へ拡がって行ったのである。それがロマニズムになっていった。同じ現象がいま日本でも起きているように僕は感じるのだ。

それでは、何が東京人と首都圏人を分けるか?というと、いささか強引の衒いはあるが、僕は「言語」のように思う。何故そんな風に思うかというと・・首都圏語は、東京語を中心に近郊地域の方言を取り込み、そしてTVなどからもはるか遠い地域の方言も取り込んで、特殊な独特な言語体系を産み出しているからである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました