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ご府外東京散歩#04/歩成り(奴)武士が徘徊する町

支配者(管理者)と農家等を分離させるというアイデアは秀吉のものだった。
領地主は領地権のみを持つ。その領地権は中央政府か論功行賞と石高によって査定され差配されるが、一定期間で移封されるとした。その際、領主が連れ出るのは家臣のみで農家などは全て滞まるとされた。
これによって家臣と非家臣が明確になり、領主が家臣(兵)として保持できる数の絶対数が決まり、中央からの管理がより容易になる。そのために刀狩りが行われ、領主が兵士として持てる頭数が定まった・・のである。
家康はこれを踏襲した。しかし現実には、大掛かりな配置転換が実行されたのは家康存命時だけで、そののちは半固定化され、移封は直参大名のみになっていった。
実際問題として新田の開発が始まると、それが武家や商屋の「知行(云わば私有地)」とされたので、それらを全て捨ててて領主とともに移封というのは現実的には不可能だったからだ。
同時に「身分的周縁」と呼ばれる、士農工商には分類しきれない人々が多く誕生した。幕藩体制下で、さまざまな些末な仕事が派生し、これを士農工商の枠組みの中に納めるのは不可能だったからだ。こうした「身分的周縁」階級の人々は、都市部にも農村部にも多数生まれるようになったのが江戸中期である。

さて。人口100万人になった江戸だが、武家も町民も圧倒的に単身者が多い街だった。自然増は望めない街だった。それでも江戸入城時からほぼ半世紀の間に人口が3倍近くに膨れあ上がったのは、外部からの流入が絶え間なく続いたからである。・・その最も大きな輩出先は近在の農家からである。
農民は原則的に移住できないし、仕事を替えることも許されていなかった。しかし農閑期に他の仕事に就き現金収入を得ることは黙認されていた。そのため江戸開墾から以降200年余り、近郊農家から弛まなく「身分的周縁」に就く人々が流れ込んだのである。そして、かなりの人々がそのまま居ついたのだ。
これを幕府はご法度としていたが、そうした雑務を司る人なしでは江戸は成り立たない。そのため「地方における農業就労人口が確保されれば、これを見逃す」という政策を取らざるを得なかったのである。

それでも決して自由に・・というわけではない。
江戸市中で働くには「請人(身元保証人)」が必要だった。しかし早くから、こうした地方から流入してくる人材に対して仕事を斡旋する「口入れ屋」が成立していた。請人とは、保証したことについて厳格な債務を負う業務で、律令時代(令義解)には既にあった業種である。
請人は先ず斡旋する人物の調査をする。そして保証しうる人物であるとされると武家あるいは商家に、農民を斡旋とた。そして斡旋された者は、商家に奉公すれば商人として、武家に奉公すれば武士として扱われた。つまりこうした歩成りの(奴)武士が相当数江戸市内には奉公していたのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました