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ジャンゴ・ラインハルト#02/バル・ミュゼット01

ジャンゴは、北ヨーロッパをワゴンで流浪する典型的なジプシーの子として生まれた。1910年1月23日である。その出生証明書によるとベルギーのLiberchiesとある。

この出生証明書だが、ジプシーにとって極めて重要な価値を持っていた。流浪の旅には必須な通行証を兼ねたからだ。

初期のジプシーは、巡礼者として神聖ローマ皇帝ジギスムントから帝国内の自由な移動を許可されたとして、所謂「皇帝ジギスムントの特許状」を保持していた。この特許状に替わる通行許可証として、出生証明書が利用されていたのである。


ジプシーは流浪の民だ。畑も家畜も持たない。馬車に乗って家族単位で移動を繰り返す。子は成人すると親と同じように馬車と所帯を持ち独立する。出自は北インドだと云われている。自称は「エジプト人の末裔」であり、そのためにGypcy(エジプト人)と呼ばれた。

現在は、ジプシーは差別用語であるとしてロマromaと呼ぶことが多い。しかしここではジプシーという名で呼ぼう。ジャンゴに敬意を表して。

ちなみにフランスのジプシーたちは、自分たちを「ロマ」とは言わない。ロマという呼び名は、彼らの中で最も下層な人々を指すものだからだ。「ツィガンTsiganes」や「ジタンGitans)」という言葉を用いている。


ジプシーは鍛冶屋が多かった。ワゴンで村々を旅して、鍋釜・農具の修理をして歩く人々が多かった。そして旅芸人として踊り歌いさまざまな行事に利用された。

ジャンゴの一家もそうだった。しかし第一次世界大戦後、父ローレンスLaurence Reinhardtが亡くなると、母ネグロスJean-Eugene Weissは、クリニャンクール門の傍にあったジプシーキャンプに馬車を止め、其処に定住するようになった。

ジャンゴは幼年期から少年期10代をこのキャンプで過ごしている。


ジャンゴは、音楽的に早熟な天才だったようだ。バイオリン弾きだった父ローレンスの血が彼に引き継がれているのかもしれない。12才のとき近所に住んでいたラクロという男からバンジョーを譲ってもらうと、これに夢中になった。プロの音楽家としてステージに立ったのは13才。モンマルトルの丘モンジュの通りにあるバル・ミュゼット(居酒屋兼ダンスホール)で演奏するバンドのバンジョー弾きとして働いた。


シャルル・ドローネ「ジャンゴラインハルト伝」から引用しよう。

「バル・ミュゼット!

立ち込める煙草のけむり、裏箔の剥げ落ちた鏡、恋人同士のイニシャルやたわいのない落書きが刻まれたテーブルや壁。天井から下がった赤色の照明灯など・・すぐ思い出される情景だ。店内には張り出した小さなバルコニーがあって、そこで演奏する楽団のメンバーは梯子をよじ登っていかなければならない。演奏がワンセット終了すれば、ミュージシャンが客にこう呼びかけるのが慣わしだった。

『投げ銭をお願いします!』

バル・ミュゼットは、この時代と暗黒街を代表する場所だった。ふだんは危険な連中がいる場所には近づかない紳士淑女も、こんなワクワクさせられる場所なら別で、大勢の人が集まっていたのである。」


このバル・ミュゼットで演奏される音楽は、以降の音楽の方向性を決める全ての要素が集まっていた。

①テンポが演奏中一定である。3拍子か4拍子である。

②リズムセクションとメロディセクションが分離している。

③曲の長さは3分前後である。

④旋律は情感的で単純で憶えやすい。

これらは、全てダンスを踊るために必須な条件である。

つまり現代流通している商業音楽は、すべてダンスミュージックとして産み出されたものなのだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました