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小説日本国憲法4-6/総選挙#02

4月12日。総選挙終了後、すぐさま解散すべき幣原内閣が唐突に抵抗を示した。未だやり残してることあるというのが言い分だった。前代未聞な話だ。あきらかにGHQからの要請だろう。ホイットニーたちは、鳩山の足を掬うための資料集めをする時間を望んだのだろう。
それほどまでに日本国政へ深く関与しているということを露とも気が付かぬ鳩山は「どういうつもりだ。老醜を晒すのか?」と戸惑った。それでも高を括っていた節があった。しかし、今度は唐突に進歩党の総裁に幣原が就くと、このまま幣原内閣続投の可能性も生まれてるかもしれないと、鳩山は不安になった。4月16日である。

その上、この頃よりGHQが公然と鳩山は「指導力に欠け、政治家というよりも政治屋。口数は多いが、話す内容は論理性に欠ける」という酷評し始めた。そのために鳩山は「公職追放」になるのではないか、という噂が広まりだした。鳩山は「僕は絶対大丈夫だ」と自信満々に言っていた。彼には自分に瑕疵はないという確信があったのだろう。

いずれにせよ、日本自由党は衆議院選挙で選ばれた第一党である。幣原が如何に愚図ろうが、早晩内閣の席は私へ譲るしかない。鳩山はそう思っていたのである。

そして4月22日さすがの幣原内閣も限界となり総辞職。4月30日に参内して幣原は鳩山を後継首班に奏請した。そして5月2日、大命が鳩山一郎に降下した。満を侍して鳩山は翌日から組閣人事に入った。

しかし4日朝、唐突にGHQから公職追放覚書の通達が届けられた。晴天の霹靂である。

この通達書はGHQが出した公職追放覚書第一号でもあった。

それによると、「日本政府はみずからの責任において何らの処置をとりえなかったので、 最高司令官は鳩山の適格性に関係ある事実をたしかめ、好ましからざる人物であるとし、公職追放とする」とあつた。そして五つの理由を挙げている。

①1924年から29年にいたる田中内閣の書記官長時代に治安維持法を改悪した責任をもつこと。②1931年から34年にいたる文相時代に滝川事件に象徴される学問と思想の弾圧をおこなったこと。③ヒトラーの労働者階級抑圧計画を日本に移植して労農団体の強圧的解体に加担したこと。④首尾一貫して日本の侵略行為を支持したこと。⑤反軍国主義者をよそおいながら、その実は1942年の翼賛選挙のとき選挙人におくった挨拶状で侵略戦争を支持したこと、 であった。

この覚書が鳩山の手にわたされたのは5月4日の午前9時45分。 鳩山首班の夢は脆くも潰えた。

鳩山はその日のうちに大命拝辞した。では誰を後継者とするか。

鳩山は先ず勅選貴族院議員だった古島一雄を選んだ。しかし古島は高齢を理由に固辞。吉田を強く推挙した。鳩山は、あまり面識のない第11代 宮内大臣・松平恒雄に依頼することにした。しかし吉田と共に会ってみるとあまりにも鳩山とソリが合わない。帰り道に「あの殿様じゃ党内が収まらない。君にやってもらいたい」と吉田へ総裁後継を持ちかけた。しかし吉田はこれを即座に断った。「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と言った。

鳩山は「私の履歴書」の中で、こう書く。

「パージになったとき、私は周知のように吉田茂君にバトンを渡した。これがあとになって俗っぽい表現でいうと、ひさしを貸して母屋をとられたということになってしまった。

そのときの状態をいうと、初め吉田君は牧野伸顕がそういう意見だったようで、自分は適任者ではないからといって引受けなかった。そこでほかのある人に任せようと思ったが、これは河野一郎、三木武吉、またその他の連中が皆反対するのでだめになり、こうなればどうしても吉田君以外にはないと思って、とうとう口説き落したわけだ。そのとき吉田君は自分はどうしても政党の総裁の座を長くあたためることはできないから、君のパージが解けさえすればすぐやめるということをいっていた。私としても、別に戦争に加担したわけでないから、パージなぞすぐ解けると思っていたのである。」

また、鳩山は『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社)では次のように書いている。
「吉田君が総裁を引受けることになった時、四ヵ条かの書いたものを向うから持って来た。この書いたものはその後何うなったか、紛失してしまったが、あの時二人でこんな話をした。自分は政党のことは全く関係がなくて分らんから、政党の人事については一切君の方でやってくれなきゃ困る。政党は一切君の力で押えてくれ。但し内閣の人事については干渉してくれるな――とこう吉田君が私に話した。」
おそらく鳩山は公職追放が5年以上続くとは思っていなかったのだろう。朝日新聞もGHQの顔色を伺うにあたって鳩山を利用したが、そのことで彼が5年以上も公職追放になるとは思っていなかったのだろう。

鳩山は、パージなぞすぐ解けると思っていた。「私の履歴書」はこう続ける。
「それが延引に延引を重ねた。
これはおかしいと思っていると、私のパージ解除については、吉田君が邪魔をしているということを岩淵辰雄君その他から詳細にきいた。信じられないことだが、ほんとうなら、まったくひどいことをするやつだと思った。しかし残念ながら、現実はその通りであったのである。このことはマッカーサーの幕僚も私のところを訪問して、妻と私を前にすえて証言したのだから間違いない。マッカーサーとしては、私を早々に解除するつもりなのだが、どうも吉田が賛成しないので仕方がないといっていた。それを聞かされたときは、さすがに私も激怒した。」

吉田茂は、鳩山一郎の推挙を受け日本自由党総裁への就任を受諾した。そして5月16日大命が降下し内閣総理大臣就任。第1次吉田内閣は5月22日より発足した。
ちなみに吉田は、大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)が首相の地位に就くのも、これが最後になった。

首相官邸への引越しの日、陣頭指揮を取って忙しく動く麻生和子の姿があった。

「和子。少し歩くか・・」吉田が言った。
「はい、お父様」和子は手にしていた荷物を傍にいた次官に渡し、吉田の後ろを歩いた。
前庭に小さな池がある。(いまはない)二人はその前に佇んだ。
「牧野伯爵は、今政権を取ることは火中の栗を拾うことになるかもしれん、と危惧されておった。奉天の様子を気にされておられた。先日、大命を拝受するために参内した折も、陛下はそのことを口にされた。」吉田は言った。
「はい・・バンカー大佐から現況は逐一知らせていただいております。ソ連は蒋介石政権を認めるつもりは無いようです。」
「毛沢東のお出ましか・・」
敗戦によって中国東北部は完全にソ連の支配下に入っていた。しかしソ連は自国に同地区を取り込むつもりは無かった。満州国すべての自分のものにすれば、他戦勝国からの非難は必至だ。スターリンは無駄な摩擦を嫌った。その代理人として毛沢東が率いる共産軍が同地に進駐したのは1945年9月。遅れを取った蒋介石・国民党軍が同地へ派兵したのは翌月の10月の終わり、そろそろ冬将軍が猛威を振り始める頃である。

ソ連軍は、公式には毛沢東を支援するわけには行かない。連合軍(アメリカ)は、蒋介石・国民軍を正式な中国政府として公認しているからだ。
毛沢東軍も決して大きくなかった。そのため、1月の国民軍本格派兵との戦闘で毛沢東共産軍は敗走した。しかし根深く同地には食い込んでいたのである。蒋介石は、このまま自国民同士の内戦となることを危惧し、ソ連へそのまま東北部駐屯することを依頼した。しかしソ連はこれを無視した。

冬将軍が治まる3月から4月、ソ連は東北地区からの撤収を始めた。致し方なく蒋介石はその撤収後へ進駐した。案の定、そこに伏兵として待っていたのはソ連製の最新兵器で武装した毛沢東軍だった。内戦は激化した。それでも圧倒的兵力を持つ蒋介石・国民軍は東北の中心地である洛陽を3月13日に制圧し、長春は 4月18日、自らのものにしている。

ソ連軍は5月末までに北部5省(松江・合江・赦江・黒竜江・興安)以外の全てから撤退を完了。スターリンの関心は渤海ではない。日本海だったのだ。
日本が続けざま、新憲法/総選挙/東京裁判に揺籃しているとき、実はそれ以上に巨大な時代の変革が、中国大陸で起きようとしていたのだ。
一歩間違えば日本の国体護持という大前提を吹き飛ばしてしまうほどの大きな時代の変革が、中国東北部・・関東軍が敗走した後の地で始まっていたのである。

その不気味な蠕動を正鵠に見つめられる現役政治家は、そのとき吉田茂しかいなかった。
「北海道が取れなかったスターリンは、別の絡め手でくるつもりか・・太平洋の不凍港をどこに求めるつもりなんだ。彼は・・」吉田は独り言のように言った。
「最新武器が常に供給されている毛沢東軍は、実は相当善戦しているようです。」和子が言った。
「米軍は抗議する意思はないのか?」
「毛沢東と蒋介石の間に入っているマーシャル将軍は、時折仮想敵国の必要性を口にしているようです。次期大統領選に向けて張られた伏線かもしれないと、バンカー大佐がもらしておりました。」
「太平洋の彼方の動乱は、選挙目的か・・下種な奴らだ。」
和子は沈黙したままだった。
「いずれにせよ、細心の注意を払って、コマを進めるしかないな。・・ところで、陛下の米大使館への次の御行幸はもうすぐだな?」
「はい。5月31日です。」
「中国の共産化についての話は、その席で為されるな。」
「はい。でも会談内容は・・」
「判っている。今回も極秘だ。」
「はい。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました