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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#09

暗号名「MeetingHouce」東京市焦土作戦は、地区を四つに分けていた。
第一目標/深川区(現江東区)、第二目標/本所区(現墨田区)、第三目標/浅草区(現台東区)、第四目標/日本橋区(現中央区)である。
作戦は予定通り第一目標/深川区(現江東区)を焼き払うことから始まった。投擲開始/着弾は0時7分頃から、空襲警報が出たのは0時15分だった。対戦体制もないまま、まったく寝耳に水の一方的な殺戮になった。
では、具体的にどのように作進行したか?
高々度から関東へ侵入したB29編隊は、先ず高度を8000mから3000mへ落とした。月齢は左弦の三日月である。曇天で雲が多かったので、高度を落とすと極端に視界は悪くなった。
まずパスファインダー部隊(PFF)がターゲットである地域MeetingHouseへ侵入、PPFは視認によってターゲットを決定するので超低空で飛行し、目標となる建物/地点にエレクトロン焼夷弾を撃ち込んだ。
エレクトロンとはマグネシウム96%とアルミニウム4%から構成される軽合金のことで、極めて高温閃光する。酸素を必要としないので、水中でも発火し消化することはできない爆弾である。PFFはまずこれで焼夷弾投擲ターゲットを定めた。実はこの日のためにパスファインダー部隊(PFF)は、3月3日、5日、7日と夜間爆撃に参加し、実践にて訓練を行っていたのだ。パスファインダー部隊は予め投擲目標を絞り込んでいたのである。その無数に立ち上るマーキングの炎に向けて、後続B29は焼夷弾を投次々と擲した。投下弾量は38万1300発、1,665トンにも上った。ほとんどが焼夷弾だった。

当日は強い東風が吹き荒れていた。火災が始まれば投擲目標の視認は不可能になると想定されていた。なので爆撃は風下から暫時風上に向かって行われた。・・その日の爆撃による被災を最悪のものにしたのはこの東風だった。また火災による強風の発生がこれに相俟ったのである。場所によっては空気中の酸素が燃え尽きて呼吸困難に陥る勢いの火勢になっていた。人々はにげまどうばかりだった。それに重ねて機上からの機銃掃射があった。その機銃掃射については「空襲通信」第16号に掲載されたSams Richar氏の「3月10日の東京大空襲の際に民間人に対する機銃掃射はあったのか」が触れている。
https://www.amazon.co.jp/%EF%BD%A2%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E9%80%9A%E4%BF%A1%EF%BD%A3%E7%AC%AC16%E5%8F%B7-%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%83%BB%E6%88%A6%E7%81%BD%E3%82%92%E8%A8%98%E9%8C%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BC%9A%E5%85%A8%E5%9B%BD%E9%80%A3%E7%B5%A1%E4%BC%9A%E8%AD%B0/dp/B00MDIFV2E/ref=sr_1_13?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=27KGAA668NKO0&keywords=%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E9%80%9A%E4%BF%A1&qid=1646351367&s=books&sprefix=%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E9%80%9A%E4%BF%A1%20%2Cstripbooks%2C300&sr=1-13&fbclid=IwAR3BANIEnltL3vKn-bz2cO3hC4Rqih2makUOdF0yFtZWeB2mrKhvM6BIsQ0

さて。3月10日の石川手記を続ける。
「それからどこをどう這い回ったか判らなかったが、劫火はまだ空を蔽って流れる猛煙を真っ赤に染めていたが、いつの間にか敵機の姿はなく、煙の間を通して東の空がうす明るくなってきた。その時、私は生きていたんだとはじめて感じた.
周囲にも何人かの人が生きていた.その人たちの姿を見て私はとめどなく涙が出て仕方がなかった、悲しかったのではない、見知らぬ人びとだがよくぞあの兵火を潜って生きていてくれたと思うと嬉しかったのだすぐにも抱きついてみたい衝動にかられた. そしてこの試練に打ち勝った人びとに「さあ戦友よ,前進あるのみだ, 一切の退路は断たれ道は焼けただれているが,ひたむきの前進あるのみだそれが勝利へのただ一つの道なのだ」と叫びたかった.
その人たちの顔は真っ黒にくすぶり,眉毛や頭髪は焼け,煙と灰塵で目がただれたようになっている.衣服はボロボロになって焼け焦げだらけ,手首はやけどで赤く腫れ上っていて痛々しいそういう私も同じ状態で,まだ燃え盛る道路に出た.電車通りには至るところ架線がおちて蜘蛛の巣のように垂れ下がり、電車は焼けて骨だけ残り鉄の大きな鳥籠のようになって焼け残っていた。昨夜来の強風はきなくさい煙を焼け跡からしきりに送りつづけている.
私は死体の多い言問橋を渡り,浅草花川戸に行き,両国橋の交番まで来たが,私の乗り捨てておいたシボレーも完全に焼けていた. 私はトボトボと警視庁へ向って歩き出した.
眼を汚れた布で包帯した男が通る。足に火傷した中年の婦人が息子らしい学生にたすけられていく、警防団の服装をした男の引くリヤカーに,頭へ血の染んだ手拭を巻いた老人が乗っている。そのすぐ前に幼児を抱いた母親が乗っている.こうした悲惨な姿を見るにしのびなかった.」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました