北京逍遥#05/漢太子司馬遷祠墓訪問
僕は2回、西安を訪ねている。1回目は1990年前後、前々職のとき。2回目は2000年を過ぎてから、この時は旅行として訪ねた。
目的はいづれも漢太子司馬遷祠墓訪問である。韓城市から10kmほど離れた芝川鎮Zhichuan南門外、黄河西岸の梁山の東麓にある。
第一回目の時は上海から中央航空で西安西関空港へ降りた。訪ねた工場は町はずれに有って通勤は党の担当者が党の車で送り迎えしてくれた。最後の日「どこか観光したいところがあるか?」と言われて「司馬遷祠」と応えると、彼に驚かれたのを憶えている。
2回目は前職時代、長く北京に滞在していた時である。天安門の星巴克珈琲(スタバ)にタムロしてたときに唐突に司馬遷祠を思い出して、週末を利用して訪ねた。北京空港から飛行機で2時間余りだ。
お供はいつものように党から派遣されている通訳兼ガイド君である。まあ役に立たないガイドで、いつもどっちが中国史の説明をするためにくっ付いているんだからわからない子だったが、通訳としては充分働いてくれてた。今回も事前に現地の支局に連絡してくれて、ドライバーを兼ねた支局員二人が同道しての見学になった。
司馬遷の祠堂は、黄河の古い渡し場に面していた。周囲は綿々と続く農地だった。
「比較的、新しく開墾された農地でしてね。この辺りは、昔は高粱くらいなもので痩せた貧しい地区でした」と西安の支局員が言った「ここ20年ほどで、農業地帯として大きく育ったんです」
なるほど。広がる広大な畑を見ながら、山東地区に夢を見た日本人開墾者たちと同じ、弛まざる努力の影を感じた。
「農家が充実するとともに、作物の種類も大きく変わりました。人々は豊かになりました。こうした試みは現在、内陸部・西部地域12の省・市・自治区でも積極的に行われています。工業団地の設営だけではなく、こうした農業政策も重要な党の政策として実行されているんです」
「すばらしいですね」ぼくが相槌を打つと支局員、満足そうに頷いた。
たしかに中国内陸部は、いま鉄道・道路・空港や工業団地などのインフラ整備が急速に進んでいる。まず足元を固める・・という施策は正しい。大陸内部と沿岸部の経済格差は、きわめて深刻だからだ。しかし、その格差を埋めようとすると様々な問題が派生する。共産主義はこうした「問題」をブルドーザーのように引き潰して「大義」のために進められる方法だ・・だからある意味、王朝狎れしている中国には最も相応しい「方法」なのかもしれない。支局員の話を聞きながらそう思った。
共産主義には、共産主義なりの利点がある、ってぇこった。
司馬遷祠参詣は司馬古道から始まる。ゆったりとした昇り500mくらいだろうか。運転をしてくれた局員は車に残り、三人でその道を歩いた。
「芝川河谷と韓原を結ぶみちなので、地元の人は"韓奕坡Hányībó"と呼びます。春秋時代にはすでにあった道です」
進むと石段になった。
「この石段は清の康熙年間・韓城県令だった翟世琪Zhai Shiqiが建立したものです。献殿と後方の寝宮があります。献殿には64個の石碑が並んでいます。彼を敬愛する人々は歴史の中にも無数におりますが、いまでも陳列の人にとって司馬遷は神ともいえる崇拝の対象です。地元の人が彼の名前を口にするときは、敬愛の心が必ずあります」
僕は、内心びっくりした。
実は、この旅行の2週間ほど前に青島を訪ねたばかりだったんだ。その時に徐福の墓を訪ねた。徐福のときも、同じく青島の党支局員が同道してアレヤコレヤと話してくれたんだが、彼の言葉の中には"徐福への/先人への敬愛の心"はなかった。
献殿に進むと、司馬遷の立像があった。袍と玉帯だった。そして屹然と中空を見つめていた。
「この司馬遷像は、真北を向いてます。納められたのは北宋の頃です。宣和7年(1125)です。製作者がどんな思いでこれを彫り、そして北面させたかは、定かではありません。」
寝殿の奥に墓があった。墓はドーム型だった。
「壁面に、究天人之際、通古今之変とあります」支局員が指さした。
「天人の際を究め、古今の変に通じる・・ですか。如何にも司馬遷にふさわしい言葉だ」
司馬遷については、その著書以外のことはほとんどわかっていない。いつ死んだのか、どこで死んだのかもわからない。
司馬遷はオノレの才に溺れて、背負わなくてもいい咎を背負った男だ。彼の子孫に"司馬遷"を名乗る者はいない。累が及ぶのを恐れて、司馬遷は名前を替えた。"司"を"馮"としたのだ。そして長男には"同"と改姓までさせている。
北面し空を見つめる司馬遷像を見つめながら、暫し物思いに耽った。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました