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ゆく水や 何にとゞまる 海苔の味#01

元佃から佃島に渡る橋が、佃小橋。僕の記憶ではその袂(たもと)まで都バスが来ていた記憶があるんだけど・・勘違いか。

僕の生家は元佃側だったから、日の出湯(銭湯)へ行くにはいつも佃小橋を渡っていた。それを真っつぐ進むと、どん詰まりが佃の渡し、だ。

この佃小橋。子供のころには、ちっとは大きい橋に思えたンだけど・・いまみると、その名の通り小さい。元佃側右に公衆トイレが有って(写真に写ってる)左側はちょいと広場になっていた。ここに干し海苔作りのころ・・冬の始まり頃になると、一尺程度の四角い葦簀に漉いた海苔を貼った木の板が幾つも並んだ。天日で乾燥させてた。子供のころには普通にあった景色だ。

・・そのころは、佃の人たちが隅田川に立てた比々施染に着いた海苔を集めて、それを煮てからよく叩き、漉き舟(槽)で一枚一枚漉いて葦簀に貼り付ける。そんな風に作っているんだろうと思ってた。いまはちょいと自信がない。もしかすると大森あたりの業者から原料になる生海苔は買っていたのかもしれない。・・記憶の霞の向こうだ。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991268/266

たしかに東蘭洲の「墨水消夏録」には「浅草名物の干海昔、むかしは浅草川にてこれをとり、ここにて製したるよしいい伝れども、いつの頃までしかありしや詳ならず、按ずるに元禄の頃までは浅草にて製したるなり」とあるから浅草川=隅田川で海苔を採集していたことは間違いない。其角も「焦尾琴」で「石原の椎のしげしとだに人目まれなる境には小家そむきそむきたてこめて、いさら川すちを漫したる皆この流に入其引、所の産を寄せて」と書いたうえに「ゆく水や何にとどまる海苔の味」を添えている。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0080-000204&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%84%A6%E5%B0%BE%E7%90%B4%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=2

隅田川=大川は、上流の土砂を運んで来るから深くない。どちらかというと、ドッペりと広いだけの川だ。海苔を採るには適している・・海苔fは、川の中に比々(ヒビ)を並べて採る。

川中に四方棒を立てて、その間に比々(ヒビ)置く。「東海道名所図会」の中に「柴というものを多くからげて、小船に積、沖の方十町許りあるいは二十町、又は一里余も出て狼牙棒で海底に穴を掘てかの柴をさしこみおく、これを比々と云う」とある。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765194

・・ちなみに千代田城の傍らに、比々を並べて海苔を採集するに最適な入り江があった。日比谷である。比々=日比の名前は、ちゃんと今でも残っているのです。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763975

「武蔵風土記」には「たてる時は海底一米位の穴をあけ枝先を陸地にむて少し斜にたてる」とある。いずれにせよ遠浅な汽水地区が必須で・・たしかに大川ができたのちには、そのどんつまりの佃島はそれに相応しい場所だったのかもしれない・・でも実は、個人的には生海苔を採集している人たちの姿の記憶が欠片もないのだ。大川の畔がいつも遊び場だったんだけどなぁ。・・なので「買ってたんじゃないかなぁ」というのが、僕の勝手な推測だ。

モノの本によると、海苔の採集は11月ころから翌春4月くらいまで。比々(ヒビ)に着いたものを二週間に一回位採収する。一冬を大体四期にわけるそうだ。始まりの頃のものを「秋海苔」と云い、冬の真っただ中のものを「冬海苔」と云う。モノとしては冬海苔のほうが格上だった。大体の目安として生海苔一升あたりで、干海苔が12~13枚作れたという。



無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました