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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#04

石川手記を続ける。2月25日の石川手記である。
「刑事部長と火の間隙をあちこちと求めて漸く空地まで辿りつくと,そこは避難してきた人々でいっぱいだ。 折角命がけで持ち出した夜具や風呂敷包みには雪がかかり,それが火熱でぐっしょりと濡れている. その傍らに佇む人々の顔は呆然自失していて,到底涙なくしては見られない.漸く遥か離れたところに自動車を見出した.秋山刑事部長は運転手に勝手に車の位置を動かしたと言ってひどく叱責していた.その気持ちも判るがそんなにまでどなる事はないと思った。運転手の話では私達の戻ってくるのをじっと待っていたのだが,眼の前まで火が迫り熱くて,このままおれば自動車まで燃してしまうのでやむを得ず動かし,誠に申し訳ありませんと謝罪していた。 無理もない事だ。
その車に乗って、警視庁に戻ったのが 17 時を少し過ぎていた.帰ってみると,今までに2回も警報が発令されたり解除されたりしていたそうだが全然判らなかった、吹雪の激しい警視庁屋上に出てみると,宮城はすっぱり黒煙に包まれ,老松がところどころ燃えており,神田方面,大手町方面は依然として火勢衰えず,それに加えて雪は益々降りつのって猛威をふるっている.

この11月から始まったB29による空爆だが、すべて高々度からの爆弾投だった。高さは8,000m程度。目標の確認は「ノルデン爆撃照準器」による視認だった。レーダーによる目標確認も行われてはいたが、高々度からの正確な把握は未だ技術的に不可能だったので、ほとんど視認に頼っていたわけである。・・しかし現実問題としてこれほどの高さから爆弾を投擲した場合、それがどのように散らばるかについては殆ど実データが無かった。実際に2月25日の場合、投下場所は前述暗号名「Meetinghouse」/都内住宅地帯と決められていたが、具体的なターゲットとされる設備は定めらることは不可能だったので、なかり成り行き任せ的な爆弾投下になった。たしかに米軍は、弾道学を駆使して精緻な投擲法を確立はしていた。しかしそれでも高々度爆撃の場合、痛烈なそして気紛れなジェット気流の影響を受けるので、如何な弾道学をもってしても正確な投擲は不可能で、こうした技術はほとんど機能しなかったのである。

高々度からの爆撃は攻撃法としては、きわめて効率が悪い。
カーチスルメイはこのことで上層部から強い叱責を受けていた。そのため彼は、投擲高度を8000mから3000mへ下げる指令を出した。
・・ドイツ戦線で、これは不可能だった。ナチスは優秀な迎撃空軍と対空撃用高射機関砲を装備していたからだ。しかし漢口では可能だった。1944年12月17日である。日本軍管理化にあった漢口(現武漢市の一部)をルメイは低空飛行によって空爆をしている。これは大成功を収めた。
東京なら・・いや、東京でも可能である・・とルメイは思ったに違いない。
日本の防空は、だれが見ても希薄だったからだ。
米軍の戦略解析チームは、日本軍のレーダー照準設備は取るに足らずとしていた。日本軍の対空高射機関砲の命中率は高々度になると大幅に落ちるという評価だった。事実そうだった。1,500m以上になると殆ど当たらなかった・・のだ。
3月に入り、カーチスルメイは日本列島/東京への空爆高度を8000mから3000mにする訓練を開始している。同時に、可能な限り損耗を防ぐために、3月10日の一斉空爆は深夜実行という決断をルメイはした。
この絶妙な作戦変更は、日本側にも肌感としてわかったようだ。
3月4日の石川手記の中に、こんな一文がある。

「被害は殆んどなかった。以上の如く月明時夜間来襲の敵機数が多くなったことは夜間大挙来襲の可能性があることであり、今後充分なる警戒を要する。これと同じような事をラジオも報じている。」
石川光陽は、彼の手記の中でルメイの作戦変更の匂いを微妙に感じて、3月10日の深夜に実行される大空襲を予見しているのだ・・

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました