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佃新古細工#01/昭和の公園子供社会

学校がはねると、下町の子供たちの社会はそのまま近所の公園に移動する。
公園には、大人社会の縮小版である子供社会があるもんだ。そしてそんな公園には、必ず一人は事情通の子供がいた。たいていは、そこを仕切ってるオヤブンの下っ端で、そいつの集めてきた話は、オヤブンを通して通達される。子供社会と大人社会は全くの相似形だ。

実はこれが山の手だと違うそうだ。山の手は、各家庭単位が基本で、家の外での子供社会の構築は、どちらかというと学校におけるそれに準じているそうだ。 下町は違う。学校での社会は学年単位なものだが、公園を中心にして構築されているそれは、学年を跨いでいる。
子供社会の構造が、東京は、山の手と下町とはちがう。
それはやっぱり、山の手の場合。家単位が基本なので、大人:子供の対比が明快で、そのために子供社会が、原則的に大人の管理下にあるからかもしれない。
下町の場合。これが大人:小さな大人(子供)という対比になり、両者の間の線引きが曖昧になる。だから子供たちは平気で近所の蕎麦屋に一人で、あるいは友達と出かける。おそらく山の手では有り得ない現象だと思う。
それが大きな原因で、下町の子供社会は、山の手よりも、より相似的に大人社会に近かったんだと思う。
で。その公園のオヤブンから、時折こんな伝達が回る。
「今日は、XXXで建前あるぜ。」
「建前!おおおお♪」子供たちから歓声が上がる。
建前とは棟上げ式のこと。
棟上げ式には、餅や菓子、硬貨が屋根から撒かれる。
お菓子も魅力だったが、何しろお金がね、ばら撒かれるのが嬉しかった。

大抵五円なんだけど、十円が時折混ざっている。子供たちは、それを目をサラにして見る。そしてばら撒かれると、みんなで飛びつくように拾う。
大人たちは、そのあとに宴会があったようだが、僕たちは拾ったお金を持ってそのまま駄菓子屋に直行だった。
よく使ってた駄菓子屋は、月島西仲の路地裏にあった処と、三角公園の近くにあった駄菓子屋だったな。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました