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黒海の記憶#42番外/黒海は東洋と西洋の境目にある#04

東から黒海北側にある大草原に入ってきた人びとの大半が遊牧民であった。一部は半農半牧だったが、農のサイズは限られていた。灌漑がないところで文字が生まれることは稀だ。ましては計算術は確立しにくい。そのために彼ら自身によって残された史料はほぼない。彼らと関わった、文字を持つ定人々が語るものからしかその姿は窺い知ることができない。
それでも総体として見られるのは、文化様式/言語/経済方法全般にわたってイラン的要素とテュルク的要素の混淆であること、そして強くギリシャ世界/ペルシャ世界も受けていたことであろう。
彼らについて、東ローマの歴史家たちが語るとき、ヘロドトスを踏襲しながらも 「言うなれば、その生活様式および組織形態において、スキティアの諸民族は単一である」と記しているのは、ただ単にバルバロイ/蛮族に対する云われなき蔑視というより、あまりにも混沌としており、主体が掴み難くボードプレイヤーが度々唐突に(ローマから見て)入れ替わったからに相違ない。
それでもスキタイ人が、あたらしいチェスの差し手であるサルマタイ人(彼らも言語的にはイラン系だった)に入れ替わっていくあたりで「対ローマはサルマタイ人」という認識が確立していったに違いない。

サルマタイ人は唐突に表れた民族ではない。BC800年ころにはすでにドン川の東岸に居住していた。ヘロドトスは「彼らはスキタイとアマゾネスの間の逢瀬によって生まれた子末裔だ」という。ヘロドトスはサルマタイ人の勇猛さを「アマゾネス」の名前を出すことで協調したかったのかもしれない。
もちろんサルマタイ人はスキタイ人と同じく騎馬民族だった。スキタイ人に比べると重装備で高機能だった。彼らは騎馬に特化した長剣/槍、鉄製鎖帷子状の鐙/甲冑を洗練化して使いた。特に鏃は差込み式のスキタイ型三翼式鉄鏃だったが、様々な改良がおこなわれており他種族に比して圧倒的な攻撃力を備えていた。これらの遺品は、ドン川下流のノボチェルカッスル大遺丘群や黒海東岸のズボフ遺丘、クバン地方のクルドジプス古墳などで発掘される。その際立った特徴は中央アジア風またはシベリア風のサルマート様式の動物意匠で、これらは彼らの出自を窺わせるといえよう。

このサルマタイ人の台頭によって、かつて「スキティア」と呼ばれた地域は次第に「サルマティア」と呼ばれるようになっていく。その地域の殆どはローマが権利を主張しているドン川以東 ではなく以西だったことから、サルマティアの支配地でない東側を「アジア」と呼び、ドン川以西側を「ヨーロッパ」と呼ぶ習慣が地図作者の間で定着し、これが正教・カトリックを跨いだ「東洋Orient/西洋Occident」という概念を生み出していったのかもしれない。歴史家たちは、ギリシャ東部とラテン西部の文化的分裂、西ローマ帝国と東ローマ帝国の政治的分裂を見つめていたに違いない。

Orientについて、用語的にはっきりと使用例がみられるのは皇帝ディオクレティアヌス(284–305)の治世中からではないか?この時期からオリエント教区Dioecesis Orientisが形成され、そう呼ばれるからである。
東ローマ帝国のほとんどはプレトリアン県Praefectura Praetorio Orientisに含まれるが、その最東端がオリエント教区であり、シリアのほぼ全域を指していた。
・・おそらくだが。私説ですが・・東方の宗教は殆どが聖域を東に向けて出入口を持つ。つまり日の出を向いて作られる。中国は北面し北極星を向くが、中央アジアは朝日を向く。
キリスト教たちはそこに特異性を見たのかもしれない。

比してOccidentは、ラテン語で「西」を意味するオクシデンスoccidensからきている。東洋Orientに退避する言葉として使用されるようになったが、一般的にはなっていかなかった。ドイツ語の中に一部残っているくらいだろうか?

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました