見出し画像

リブリヌ06/サンテミリオン村歩き#30

町を離れてポムローヌ辺りまで出かけるのでVTCを予約した。ボルドーにあるchauffeur VTCのリブリヌ支局である。Chic Chauffeur La meilleure alternative taxi Chauffeur VTC Bordeaux/Libourne(125 Av. Gallieni, 33500 Libourne)+33626566649という。
https://chicchauffeur.com/
ボルドーでも何回か利用している会社の支局なので、netからそのまま予約を入れた。
ホテルで朝食を済ませた後、ロビーへ出るとドライバーが待機していた。M氏と呼ぼう。
コースはPorte de Libourne(Esp. du 8 Mai 1945, 33500 Libourne)からChapelle Notre-Dame de Condat(All. du Guesclin, 33500 Libourne)を見た後にポムロールへ向かうコースを頼んだ。そしてLalande-de-Pomerolラランド・ド・ポムロールへ向かうというルートでお願いした。
クルマはモント・ドン通りを南下した。
「カスティヨンの戦い(1451)のあと、ボルドー周辺はシャルル7世のものになった。百年戦争は終結した。英国は尻尾を巻いて、自国へ逃げ帰ったが、残された街はボルドーもリブリヌも、フランスのものになったことで辛酸を舐めた。どちらも生活と文化を支えていたのは英国だったからな」
「交易の街ですものね」
「ん。フランスの支配下に入ってもボルドー/リブリヌとも、フランスには強い反感を持っていた。まだ弱小だったフランス王政は、英国を追い出した後に今度はアキテーヌが独自に王国化することを恐れていた。そのために周辺に幾つかのフランス軍管理下の要塞を置いたんだ。建前は英国の巻き返しを阻止するためという話だったが、実際にはボルドー/リブリヌの抑え込みだった。それでも1475年くらいから英仏の貿易が再開すると、シャルル7世はボルドー/リブリヌに交易権を授けた。英国との貿易は再開した。
しかし再開すれば、英国の一部として関税を払わなくてよかった時代が懐かしくなる。1548年にこれが爆発した。ジャクリー・デ・ピトー事件というのが起きてね、ボルドー/リブリヌは再度戦争に巻き込まれたんだ。フランス軍は、首謀者を全て誅殺した。1548年8月21日だ。粛清は翌年まで続いている」
「英仏戦争のあとも、長く遺恨は続いたのね」
「ん。それにカトリック/プロテスタントの抗争が絡まったからな。1572年8月24日にパリで起きたサン・バルテルミの虐殺が波及して、ボルドーでもプロテスタントへの虐殺が10月3日から始まってる。フランス王政への不満に相い重なって市長が虐殺を率先するという話にまで進んでいるんだ」
「混乱の時代だったのね」
「カトリックとプロテスタントの和解を目指したルイ13世が1643年に、不満を抱いていたカトリックに暗殺された」
「あらま。王様が?」
「だれがそれを仕込んだのか・・判らない。新王は9歳だったルイ14世になった。摂政権を握ったのはルイ13世の妻/ルイ14世の母・アンヌ・ド・オーストリアだ。彼女のお小姓坊主だったマザラン枢機卿が、アンヌの代理者として実際の采配を握った。彼女は高慢な上に明晰さを持たなかった。謀略には長けていたが、馬脚はすぐに出た。議会がアンヌ/マザラン体制に反旗を翻したのは1648年だ。フロンドの乱série de guerres civiles françaisesというんだがな。この時にはパリで民衆蜂起まで起きている。新王もマザラン枢機卿もアンヌ王妃もパリから逃げ出している。パリはコンデ王子のものになった。あわやフランス国崩壊のところまで事態は進んだんだ」
「え~そんなことが有ったの?フロンドの乱série de guerres civiles françaisesって初めて聞いたわ」
「支えたのは新王ルイ14世だった。彼は14歳になっていた。ルイ14世は横暴と強圧を続ける母アンヌを憎んだ。母とマザラン枢機卿を放逐したんだ。これが功を奏した。貴族たちの不満は王室への不満ではなくてマザラン枢機卿とアンヌ王妃に対してだったんだよ。小競り合いは残ったが、最終的にフランス王はさらなる絶対君主になっていくんだ。
フロンドの乱(1648~1653年)の間、ボルドーのブルジョワはオルメ議会を結成しフランス王に対立したが、結局のところ正規軍とは戦えなかった。ルイ14世がボルドーへ入城したのは1653 年8月のことだった。リブリヌは大統領府扱いになっている」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました