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悠久のローヌ河を見つめて05/プリニウスの博物誌

リヨンより北のローヌ川について知ろうとするなら、やはりいつものようにプリニウスの話を聞くしかない。(雄山閣から出ている「古代へのいざない―プリニウスの博物誌“縮刷版”別巻」は必読)
彼の書「博物誌(14巻)」の中に、この地ではアウグストゥス時代から葡萄栽培が行われておりワインが作られていたとある。その民としてアロブロゲス族Les Allobrogesの名前を挙げている。
アロブロゲス族はリヨンからジュネーブに向かう東アルプス、ドーフィネ/サヴォアに住んでいたケルト人である。彼らこそ、紀元前500年頃からアルプスの峠越えをしてきたローマ人と交易していた人々である。
交易物は錫とワインである。しかしこのアロブロゲス族が、当時すでに独自にワインを醸造していた可能性は高い。なぜなら、このアロブロゲス族こそ、アルプス山脈より北にワインを作るための葡萄を最初にもたらした人々だからだ。

イタリア半島/ギリシャ人たちの葡萄はアルプスを越えられなかった。温暖種だからだ。従ってそれを使ってワインを醸造することはローマ人たちの専有技術であり、物々交換用の貨幣として極めて優位に立つものだったのだ。その頸木を解いたのがアロブロゲス族の葡萄だった。アロブロゲス族の葡萄は、当時唯一のアルプス以北で育つ寒冷耐用種だったのである。
プリニウスは以下のように書く。

ローヌ川沿いにあるアロブロゲス族の首都を中心にした一帯に「寒い土地で霜が降りて熟す、色の黒いアロブロギガAllobroges(博物誌14巻26/27章)」という葡萄が有る。

この「霜が降りて熟す」という彼の言葉には深い意味が込められている。イタリア半島から上がってきた温暖種の葡萄が初霜以降に収穫されることはないからだ。このアロブロゲス族の葡萄アロブロギガAllobrogesが、まったく別の出自のものだったことは間違いない。

6500年前の大干ばつに追われて始まった、アララト山から西への「ワインのグレート・ジャーニー(偉大なる旅)」は、地中海東岸レバント地方にぶつかる直前に二つのルートへ別れた。ひとつは南方へ。もうひとつは黒海を沿って北方へ。南方ルートはエジプト北部に至り、あるものはフェニキア人によって地中海へ飛び出した。そしてギリシャ/イタリアへ至る。北方ルートはヒッタイトを嫌いそのまま北方を西へ進み小アジアからバルカン半島へ進む。・・このルートは、元来温暖種である葡萄に厳しい環境である。
いつも書いているように、ワインを作るための葡萄は種からは出来ない。種から作ろうとすると全く別種の飲み物になってしまうのだ。それなので必ず挿し木で育てる。つまり北方ルートで「ワインを作るための葡萄の木」を携えた人々は、常にその土地で挿し木を繰り返しながら、西へ西へと斬進したのである。この1000年2000年に至る無数回の繰り返し/地元の葡萄の木との交配が寒冷耐用種を生み出して行ったのであろう。

ローマ人がトリノからアルプスの峠を越えて、交易にやってきたとき、アロブロゲス族はこの寒冷耐用種を持っていた。おそらく少量だが自分たちでもワインを作っていた。ワインの味に馴染んでいた。だからこそローマ人の運んでくる美味なるワインを熱烈に受け入れたのだろうと僕は考えてしまう。
こうした交易は、当然アロブロゲス族(ケルト人)とローマ人の混血を生み出して行く。そして混血は技術の流出に直結する。ローマ人たちの醸造技術を彼らが自家薬籠中のものとするには、それほど時間はかからなかっただろう。

プリニウスが「博物誌」で同地を語った頃・紀元前初頭、アロブロゲス族が支配する土地・・「サヴォア地方モンブラン山麓から下流のアルヴ川渓谷、アヌシー/シャンベリーの峡谷、そしてアルベールヴィルからグルノーブルにかけてのイーゼル川では多くの葡萄畑が作られている」と、「ギリシア・ローマ世界地誌」を書いたギリシャ人/ストラボンも記録として残している。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました