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本所新古細工#07/牛島神社

さて、牛島神社である。隅田公園の中にある。
建立は円仁・慈覚大師。貞観年間(859-79)だと言われている。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人(最後の遣唐使)で最澄の弟子である。下野国の生まれだ。
その縁起を見ると
『貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と呼ぶようになった』とある。
スサノオさん、えらい神さンで坊さん神主さん分け隔てなく夢枕に立ってくれる。
ところが「江戸名所図会」には、牛島の出崎だったので「牛島の御崎と称え、これが牛御崎と転称された」とある。んんん。須佐之男命が首に牛頭を戴き円仁の夢枕に立ったという話より、こちらのほうがリアルなようにも思うのは、「須佐之男命、首に牛頭を戴き」話は他で聞いたことがないからだ。なぜ此処だけ牛頭下げてやってきたのか、その意味が何かあるじゃないか?と考えてしまう。

いつもの「新編武蔵風土記稿」にはもう少し詳細に
『牛御前社 本所及牛嶋の鎮守なり。北本所表町最勝寺持。祭神素盞嗚尊は束帯坐像の画幅なり。王子権現を相殿とす。本地大日は慈覚大師の作縁起あり信しかたきこと多し。其略に、貞観二年慈覚大師当国弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、衣冠せし老翁あり云。国土悩乱あらはれ首に牛頭を戴き悪魔降伏の形相を現し国家を守護せんとす。故に我形を写して汝に与へん我ために一宇を造立せよとて去れり。これ当社の神体にて老翁は神素盞嗚尊の権化なり。牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と号し、弟子良本を留めてこの像を守らしめ、本地大日の像を作り釈迦の石佛を彫刻してこれを留め、大師は登山せり。良本これより明王院と号し、牛御前を渇仰し、法華千部を読誦して大師の残せる石佛の釈迦を供養佛とす。』と書かれている。
弟子良本さんがキーパーソンなようだ。「新編武蔵風土記稿」はこう続ける。
『其後人皇五十七代陽成院の御宇聖和天皇第七の皇子故有て当国に遷され、元慶元年九月十五日当所に於て斃せられしを、良本祟ひ社傍に葬し参らせ其霊を相殿に祀れり。今の王子権現是なり。治承四年源頼朝諸軍を引率し下総国に至る時に、隅田川洪水陸地に漲り渡るへき便なかりしに、千葉介常胤当社に祈誓し船筏を設け大軍恙なく渡りしかば、頼朝感して明る養和元年再ひ社領を寄附せしより、代々国主領主よりも神領を附せらる。天文七年六月廿八日後奈良院牛御前と勅号を賜ひ次第に氏子繁栄せり。北条家よりも神領免除の文書及神寶を寄す其目後に出す。又建長年中浅草川より牛鬼の如き異形のもの飛出し、嶼中を走せめくり当社に飛入忽然として行方を知らず。時に社壇に一つの玉を落せり。今社寶牛玉是なりと記したれど、旧きことなれば造ならさること多し。
神寶并神領免状古碑一基
長さ三尺三寸幅一尺五寸青石なり。前面に釈迦の立像背面に奉造立釈迦像一体貞観十七未天三月日、法華千部明王院の廿七字を刻す縁起載る所の供養佛也しと云。
牛玉一顆由来は本社の條に見ゆ。
太刀一振
一尺八寸許箱に納む。蓋の面に千葉常胤神息と記し、裏に宝暦二壬申年十二月吉日中田五郎左衛門冶興と記し名の下花押在。
指物一
長三尺八分余幅一尺一寸六分箱に入れ蓋の裏書に
此指物自先祖持来候、然而牛御前宮者、先祖千葉家被致再興候依為御宮、則指物奉献納候、末代迄御傳置可被下候、仍寄進之状如件、
慶長十八丑歳九月十五日、国分宗兵衛正勝敬白
牛御前宮御別当最勝寺
右指物は本所表町名主中田五郎左衛門の所持なせしを、己か支配に国分氏宗兵衛といへるものあり。彼は千葉家の支族なりとて譲り与しを、後宗兵衛当社に納めしと云。
古文書二通
須崎堤外畠之事、合百八十よ所、自前々茂神領のよし聞届申候。為其一札進候仍如件。
永禄十一年戊辰霜月十五日、景秀花押
最勝寺御同宿中
石橋山合戦に付分捕之面々書翰之通備見山畢、景末花押
此文書の伝来をしらず。景末は何人なりや。石橋山合戦といへは梶原景季なるへけれど文字も違へり』

どうやら千葉氏に深く由来があるようだ。
となると・・僕は「江戸名所図会」の「牛島の出崎」のほうを考えてしまう。
つまり、なぜ「牛島」という名前が付けられていたか?である。
ごく単純に、実は牛が飼われていたんじゃないか?と妄想してしまうのです。
日本に使役用として牛が入ってきたのは弥生期である。朝鮮半島経由で入ってきた。なぜ朝鮮半島経由かというと、現存する在来種のDNAを調べると、インド系の台湾黄牛(華国は圧倒的にこれが多い)ではなく、 大陸中央部から蒙古, 華北を通って半島を南下したらしい欧州系牛ホルスタインと黄牛の混血だからだ。ほぼ間違いなく朝鮮半島から灌漑技術をもって渡来した人々が連れてきたんだろうと思う。

関東の広大に立農地帯では、馬と共に牛が早くから使役用に使われていた。牛馬ともその骨がこれらの遺跡から数多くはないが出土している。古墳時代前期となると、牛骨の出土はないが、埴輪が幾つも出てるからもう渡来していたんだろうね。奈良県御所市の南郷遺跡から出土した牛骨(古墳後期5世紀ころ)が最古と言われてる。
関東では、港区三田にある伊皿子貝塚から出土したものが有名だが、これは弥生時代のものらしい。港区立港郷土資料館に展示されているよ。近くに寄ったら訪ねてみてください。港区あたりは丘陵地帯だったから、こういう手の遺跡が各所に散見してる。興味深い土地です・・というのは余談。

平安時代に書かれた「延喜式(養老律令施行細則)」に"諸国牧"という項がある。
これは兵部省により開発・管轄された牛馬の牧場のことで、全国に馬牧が24ヵ所、牛牧が12ヵ所、馬牛牧が3ヵ所の計39の牧があると書かれている。この直営の牧場が千葉(安房国)には二つ、白浜馬牧と釟師馬牧あった。
千葉は馬の産地として有名で、これが関東の騎馬集団発生の大きな理由になっているんだが・・牛も多く放牧されていたのだ。
僕は「新編武蔵風土記稿」の中の牛島神社縁起の中に千葉市からの奉納品を見て確信したね(笑)此処には牛馬の牧場があった。
頼朝はそこに陣を張った・・と。
・・ところで。牛島神社は珍しい三輪鳥居である。
なぜ唐突に、ここに三輪鳥居があるのか?訪ねるたびに不思議に思うのだ。何か秘められている縁起があるのか?

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました