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黒海の記憶#25/ポントス王国の興亡#02

唐突なアレクサンドロス3世の死後、彼の帝国は直子アレクサンドロス4世(王死後に生誕)を担ぐ一派と、精薄だったピリッポス3世の共同統治となる。当然、後継の座を巡るディアドコイ戦争が勃発する。ピリッポス3世は紀元前317年に大王の母オリュンピアスに殺され、アレクサンドロス4世は紀元前309年カッサンドロスに暗殺され、アレクサンドロス3世の帝国はディアドコイらにより分割・統治されることとなっていく。

この激動の中で、機をみる敏があるポントス王国/ミトラダテス1世は黒海内の交易ネットワークをさらに充実させることで時代に一歩先んじた。さらに新興勢力であるローマと積極的に友好関係を結び、凋落するギリシャ諸都市に頼らない新しいマーケットを求めた。実は、ミトラダテス1世を継ぐ歴代の王はローマとカルタゴとの戦いに出兵までしている。このときハンニバルによる毒蛇攻撃を受けている。また、ローマの東方遠征軍団にも援軍を差し向けている。
大きなギリシャからローマへという時代のうねりの中で、ポントス王国はタイトロープながらも地の利を生かし独自の立ち位置を得ていたのである。

そしてミトリダテス6世が登場する。おそらくポントス王国最興隆期である。このミトリダテス6世は「野蛮なローマに対して果敢に戦うギリシャ世界の英雄」として描かれることが多い。
・・なかでもフランス古典悲劇をただ独りで完成させた天才ラシーヌJean Racineの書いた「ミトリダート」が最も有名かもしれない。ミトリダテス6世は共通ギリシア語であるコイネーの話者だったが、他にも24もの言語を駆使したと云われている。また巨大な体躯を持ち無敵の戦士であり馬を操り戦場を走ったという。
しかし僕は彼の中に夜郎自大の資質を嗅ぎだしてしまう。

ポントス王国とローマとの間に敵対関係が生まれるのは、紀元前88年西アナトリアへ出征したおり、同地に暮らしていた全てのローマ人約8万人を殺すことを彼が命令siatic Vespersしたためである。慢心するミトリダテス6世はお題目のようにヘレニズム文明を賞賛し、ローマを蛮族と揶揄していた。道義は我にありとしていたのだ。このローマ市民8万人虐殺がきっかけとなって第一次ミトリダテス戦争が始まっている。続いて紀元前83年に第二次ミトリダテス戦争。そして紀元前74年第三次ミトリダテス戦争によってミトリダテス6世は戦死する。

それでもローマは、ポントス王国が存在することの有効性は理解していた。王国はローマの家臣国家として存続しボスポロス王国と呼ばれるようになっていった。6世紀に入って東ローマ帝国に完全に組み込まれるまで同王国は残っている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました