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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#40/エルミタージュの丘01

「ところで・・」嫁さんが言った。
「どうしてエルミタージュという名前なの?エルミタージュって最初に聞いたとき、ロシアの美術館のことだと思ったわ。だからロシアのワインなのかなぁ~って。でフランスでしょ?どうしてエルミタージュという名前になったの?」
「村の名前にエルミタージュと付けたのは、わりと最近なんだ。もともとエルミタージュと呼ばれていたのは、タンTainの丘のことなんだよ」
「タンって、昨日泊った村のこと?」
「ん。あの村の東側にある丘だ。そこがエルミタージュの丘Colline de l'Hermitageだ。ところがコレが銘醸ワインの生産地として猛烈に有名なっちゃったからな、それに肖って町の名前にしたわけだ。Tain-Hermitageも、南にあるクローズ・エルミタージュCrozes-Hermitageも名称変更されたのは1920年だ。AOCになったのは1937年だ」
「そんなに最近だったの?・・というか、あなたの癖が染っちゃったわ、100年200年だとつい最近・・だと思うようになっちゃった」
「ははは♪実はね、ロシアのエルミタージュ美術館もその名前になったのは、つい最近だ。1917年だよ。ロマノフ王家の収集した美術品を押収したロシア革命軍が、その保管所を整備して作ったのがのエルミタージュ美術館だ。もともとはエカテリーナの個人コレクションのお屋敷だった。1775年に作られたものだ」
「両方ともエルミタージュって同じ時期に名乗るようになったわけね」
「ん。ということだ・・Hermitageというのはラテン語のErmit/隠遁者のことだ。ギリシャ語だとEremites〈孤独に暮らす人々>という意味になる。Erēmos砂漠にも由来する。・・どうだ?何を連想する?」
「修道院・・」
「ん。その通り、修道院の傍に一人で暮らすための洞窟や庵がErmitaž、これがHermitageの語源だよ」
「独りぼっちで暮らすための修道院・・という感じ?」
「まあ、そうだな。独りぼっちだから"院"とは言い難いが・・庵だ。それがタンTainの丘に出来た」
「出来た?誰が?」

「第5回十字軍(1217-1221)に参加したガスパール・ド・ステリンベルグGaspard de Stérimbergという人がだ。彼は騎士だった」
「十字軍の騎士だったの?」
第5回十字軍はエジプトを支配していたアイユーブ朝スルタン国を狙って仕掛けた侵略だ。」
「エルサレムじゃなかったの?」
「ちがう。第5回十字軍はもっとうま味のある地区を狙ったんだ。十字軍というのは、言ってみれば略奪品漁りの戦争だったからな。当初はカイロの北・ ダミエッタDamiettaを乗っ取って(1218)大儲けをしたんだが、勢いに乗ってカイロへ南進したとき(1221)マンスーラの戦いで大敗北しちまった。結局、ダミエッタも撤退し、エジプトから這う這うの体で逃げ帰った戦争になった。ステリンベルグはこの戦争に参加していた。そして帰郷すると彼は自分が犯した無為な殺戮行為に慄いて、山に籠ったんだ。タンTainの丘の中腹にね。そして彼は黙々とエルサレムから持ち帰った葡萄を育てた・・というのが伝説だ。そして、いつの間にか、その彼が籠った丘のことをErmitaž"孤独者の隠れ家"と人々は呼ぶようになった。それがエルミタージュの丘の由来だ」
「ずいぶん哀しいお話ね」
「その彼を慕って彼と共に、彼がエルサレムから持ち帰った葡萄を育てる人々が現れたんだよ」
「・・そう…頑なに人々を避けていたわけじゃないのね。よかった・・でもステリンベルグさん、エルサレムには行ってないんでしょ?ほんとは」
「まあ、伝説だ。伝説として聞いてくれ」
「はいはい、伝説ね」
「彼の持ち帰った葡萄はシラーSyrahと呼ばれるようになった。黒海の東南にシランŠīrāzという町がある。ステリンベルグが持ち帰った葡萄は、此処から来たものだと言われた・・だからシラーと呼ばれるようになったんだ。シランには今も葡萄畑がある。ステリンベルグのSyrahと極めて近しいことは確認されている」
「あ。エルサレムからじゃなくて途中の所で手に入れてきたの?シャンパニューの話をした時に、シャルドネもピノノワールも、ボージョレーのガメイも、みんな十字軍に参戦した騎士たちが持ってきたという話をしてたでしょ?あれと同じ?」
「まあ、あれも伝説だ。伝説として聞いてくれ」
「じゃ・・伝説じゃないのは?」
20世紀の終わりにDNAを利用したルーツの研究が大進化してね。ワインを作る葡萄のルーツはかなり詳細に判っている。
ステリンベルグやその信奉者がタンTainの丘で育てた葡萄はモンドゥース・ノワールMondeuse Noireの裔だった」
「モンドゥース・ノワール?」
「ジュラの葡萄だ。おそらく紀元前にヴァノワーズ山地、ボーフォルタン山地あたりから運ばれてきた葡萄だろう」
「ステリンベルグさんじゃないの?!なにそれ」
「まあ聞いてくれ。葡萄のDNAを調べたって、ステリンベルグが持ってきたかどうかまでは判らない。でもシラーSyrahの始祖はアナトリア地方のものではなくて北アルプスの葡萄なことは判った。アロブロゲス族がローヌ川周辺に運んできた寒冷耐用種と同じ仲間だ。持ち込んだのは、おそらく東のケルト人たちだったに違いない。彼らが紀元前から育てていたんだよ」
「ステリンベルグさんが葡萄を持ってくる前から、その人たちの葡萄はあったわけよね?」
「ん。その後を継いだのがローマ人だ。ローマ人たちが文明の利器をもって、この地にも入り込み、ガロロマンが生まれるんだ。
・・しかし、ローマが斃れた後は葡萄畑は荒廃するばかりだった。支配者たちも何度も入れ替わったしね。ワインそのものが代替え貨幣としての機能を喪失しちまうからだ。でも葡萄は強い。人の手に係らなくても全滅はしない。モンドゥース・ノワールは、地元の葡萄デュレザDUREZAと自然交配して残ったんだ。ガスパール・ド・ステリンベルグGaspard de Stérimberはtournonの丘でこれを育てたんだよ。ローマ人たちが残した畑を再開墾して、葡萄畑を作り上げたんだ」
「Ermit/隠遁者として?」
「ん。それでも、少しずつ信奉者が生まれた。その信奉者たちも同じくコミューンとして葡萄を育てたんだ。それがシラーと呼ばれるセパージュだ。
そしてステリンベルグが逝った後も、丘の葡萄畑は残った」
「そして、彼が暮らした丘を、いつのまにかErmitaž"孤独者の隠れ家"と呼ばれるようになるのね」
「ん・・文書としてErmitageという名前が出てくるのは1389年からだ。150年ほど経ってからだ。実は、もうその頃には希少な高品質なワインとして、エルミタージュは一部の人たちの(金持ち)間には知られていた。プロヴァンス/北ローヌのワインで、地元を越えて知られていたのはバチカンへ運ばれるシャトーヌフ・デ・パプと英国(オランダ商人たちが運んだ)エリミタージュだけだったんだよ。
エリミタージュの丘は小さい。いまも140ヘクタールしかない。しかしシラー種だけで作られるワインは、きわめて個性的だ。プロヴァンス/北ローヌのワインが地元だけで消費されていた時代でも、バチカンへ運ばれるシャトーヌフ・デ・パプとエリミタージュのワインは、高品質で希少なものとしてオランダ商人を通して英国などに売られていたんだ。このときにErmitageは発音しやすくHermitageと名前を換えた。言いやすい名前にしたんだ」
「なるほどねぇ~長いエルミタージュの名前由来ねぇ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました