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日本列島統一王朝と国名の由来を追って

すきま縫ってあたらしい本を出しました。
テーマは、なぜ日本統一王朝は「日本」という、外から見つめたポジションで国名を決めたのか。王の名として「天皇」という道教で使用されていた尊称を選んだのか・・ここから初めて、日本列島統一を果たした現王朝の成立とその過程を考えてみました。

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●はじめに
日本列島に群居した諸国を、最初に統一した王朝について追ってみたいと考えたのは、岩波版の万葉集を読んでいるときでした。三319 番を引用します。

奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
なまよみの甲斐の国、うち寄する駿河の国と、こちごちの国のみ中ゆ、出で立てる、富士の高嶺は、天雲も、い行きはばかり、飛ぶ鳥も飛びも上らず、燃ゆる火を雪もち消ち、降る雪を火もち消ちつつ、言ひも得ず、名付けも知らず、くすしくも、います神かも、せの海と名付けてあるも、その山のつつめる海ぞ、富士川と人の渡るも、その山の水のたぎちぞ、日の本の大和の国の鎮めとも、います神かも、宝ともなれる山かも、駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも

ここに「日本之 山跡國」とあります。
「ひのもとの」は「やまとのくに」の枕詞だと云われる。
この「枕詞」について、教科書は「ある一定の語を導くため直前に置かれる語で、通常五音七音からなる」と説明します。修辞であるとする。なんともはや無味乾燥な説明です。生きている人について、まるで死体と同じように語るに似ている。

いつものように初出を追います。
最初に枕詞を「まくらことば」としたのは、鎌倉時代初期における天台宗の学問僧・仙覚です。文永3年(1266年)から文永6年(1269年)にかけて書かれた『萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)が初出です。
彼は同書で枕詞を「古語の諷詞」として説明しています。
・・諷詞とは、例えば「枕草子」の中に有る 「男やある いづくにか住む など口々問ふに をかしき言 諷詞などをすれば」の如くあからさまに言うでなく遠まわしに云うことを指します。
「発語」「諷詞」「次詞」「冠辞」と様々に呼ばれた枕詞ですが、百人一首の時代には既に殆ど機能しなくなっていました。鎌倉時代前期には、枕詞と被枕詞の位置関係が曖昧になっていたのでしょう。理由は、歌が謡いから書きに変わっていたからでしょう。

「万葉集」とは「よろず ことの葉 歌集」です。5音と7音で組み合わされ、抑揚とリズムと韻を踏んで謡われます。実は極めて呪術的です。日本語の言魂を表現します。
つまり万葉集に納められた歌は、本来詠ずるものだったのです。それを漢音で拾遺したのが万葉集です。したがって未だにどう発音すればいいのか判らない歌もある。

幾つか地祁に関わる枕詞を見つめてみましょう。
枕詞は1000あまりあると云われています。
万葉の清廉な言魂に触れましょう。

・あしひきの 山・峯(を)
「あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに(巻2) 
・あづさゆみ 周淮(すゑ)
「梓弓春山近く家居らば続ぎて聞くらむ鶯の声(巻10)
・あをによし 奈良
「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(巻3)
・いさなとり 海・浜・灘
「昨日こそ船出はせしかいさなとり比治奇の灘を今日見つるかも(巻17)」
・いはばしる 淡海(あふみ)
「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(巻8)」
・うちひさす 宮・都
「うちひさす宮道(みやぢ)を人は満ち行けど我(あ)が思ふ君はただ一人のみ(巻11)」
・おしてる(や) 難波
「おしてるや難波の津ゆり船装ひ我れは漕ぎぬと妹に告ぎこそ(巻20)」
・おほふねの 渡の山・香取
「大船の思ひたのめる君ゆゑに尽くす心は惜しけくもなし(巻13)」
・かむかぜの 伊勢
「神風の伊勢の国にもあらましを何しか来(き)けむ君もあらなくに(巻2)」
・くさまくら 多胡
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻2)」
・こもりくの 初瀬
「隠りくの初瀬の山に照る月は満ち欠けしけり人の常なき(巻7)」
そらにみつ 大和 
「そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え(巻1)」
・たまきはる 内・宇智
「たまきはる命は知らず松が枝(え)を結ぶ心は長くとぞ思ふ(巻6)」
・たまくしげ 二上 山・三諸 ・蘆城
「玉くしげ明けまく惜しきあたら夜を衣手離(か)れて一人かも寝む(巻9)」
・たまだすき 畝傍
「思ひあまりいたもすべなみたまだすき畝傍の山に我(わ)れ標結(しめゆ)ひつ(巻7)」
・たまほこの 道・里
「玉桙(たまほこ)の道に出(い)で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも(巻17)」
・ちはやぶる 宇治
「我妹子にまたも逢はむとちはやぶる神の社を祷まぬ日はなし(巻11)」
・とぶとりの 明日香
「飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ(巻1)」
・もののふの 宇治・八十 石瀬
「もののふの八十宇治川の網代木(あじろき)にいさよふ波のゆくへ知らずも(巻3)」
・ももしきの 大宮
「百石木(ももしき)の大宮人は暇(いとま)あれや梅をかざしてここに集(つど)へる(巻10)」

こうやって幾つかを詠んでみただけでも、これらの枕詞がすべて"地祁への呼びかけ"であることを直観するはずです。もしかすると原初はもっと長い祝詞であったかもしれない。その地祁への呼びかけが5音に凝縮され、招魂の言葉として機能していることに驚きます。
多くが「の」で懸かります。つまり語るオノレは地祁にとって"客びと"という位置関係が見える。謡う者は"訪ねきた者"という懸かりです。

そして・・
「日の本の 山跡のくに」と詠じたとき・・
僕はこの枕詞が"山跡のくに"を外から見た形で謡われていることに気づきました。
万葉集を読みながら考えたのは、この歌を詠んだ人々の視座のことです。
もし詠む者が"山跡のくに"の中に在るならば、東方を指す"日の本"とは云わない。日の出処る地"日の本"はさらに東方を指すはずです。ちなみに中世の人々は、都の東方・蝦夷地を「日ノ本」を呼んでもいました。まさに蝦夷地は、都びとにとって"日の出処る地"だったからです。実は秀吉もその書簡で奥州を"日本"と呼んでいます。
万葉びとの「日の本の 山跡のくに」の視線は、間違いなく西方から見つめたものではないか?つまり朝鮮半島からの渡来人たちが見つめた東海の島「YAMATOのクニ」ではないかと思い始めてしまいました。

渡来人たちにとって、詩とは漢詩でした。詩を詠ずるときは唐語/呉語(漢語)を使ったはずです。
その、彼らにとって流浪し辿りついた地。その地(原日本人)の言葉で詠われる謡に、彼らは極めて呪術的な印象を得たのではないか?超自然的な。
彼らは謡いの中に、縄文時代から連々と続くシャーマニズムの匂いを感じたのではないか?鎮魂の必然性を感じ取ったのではないか?
僕はそう思ってしまいました。
言の葉は、地祁と人を繋ぐ依代/霊代です。
繋がれる地祁は、その地のものです。
地名に枕する言の葉は、地祁への問いかけであり鎮魂です・・僕は直感的にそう感じてしまいます。つまり枕詞は、仙覚の云うような諷詞ではなく、地祁に繋がるための祝詞として在った。そう見るべきではないでしょうか?
では。「日本之 山跡國」「ひのもとの やまとのくに」は、どのような鎮魂が込められているのか?僕はそこに、日本列島を統一した最初の王朝の姿を幻視してしまいます。
その「幻」を、この一稿では追ってみたいと思います。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました