ポムローヌ01/サンテミリオン村歩き#31
リブリヌの町からポムローヌへ向かう国道はD244/モンタニュー通りという。D1089を越えたあたりから町の外になる。周囲は全て葡萄畑になった。
「ポムロームも葡萄畑を開墾したのはローマの退役軍人だった。開墾は紀元後すぐには始まっている。しかしそれも、西ローマ帝国の崩壊に重なって西ゴート人がこの地を占領したため次第に凋落し、荒廃していったんだ。再興したのはアキテーヌの時代になってからだ。聖ヨハネ修道院が、此処に治療院を興してからだ」
「治療院?」
「サンチャゴ巡礼パリルートを利用する人々のための治療院だ。本体はエルサレムにある。
その治療院によって、大きくポムローヌが花開いたのはアンジュー帝国時代になってから・・リブリヌに対英国の交易港が建築されて、それを見込んで再開発が急速に進んからだよ。シーズはニーズが有って出来る。同じくもう少し先のラランド・ド・ポムローヌもこの時期、急速に葡萄畑が拡大化した。じつはここも旧い畑が有ったんだけどね」
「へえ、同じポムローヌの名前の村が他にも有るの?」
「ん。ポムローヌはサンテミリオンの丘陵が西へ緩やかに下りていく途中にあるが、ラランド・ド・ポムローヌは、イェール渓谷に向かって作られた段丘に作られている。何れも泥質の土壌ではなく、中央山塊から伸びた石灰岩と砂石質土壌の地域だ。メドックのような、もともとはタダの泥沼を他から持ってきた土で埋め立てた所で出来たワインとは大きく違う」
「あら、ポムローヌのほうを絶賛するの?」
「いや、そういう訳じゃない。ワインを決めるファクターはテロワールだけじゃないからな。もっと精緻な技術の集合体として産まれるものだ。もちろんテロワールはワインのキャラクターの中で、きわめて重要な要素だ。でもそれは優劣じゃなく際立った個性として立ち現れてくるものだと思うよ」
「つまりサンテミリオンとポムローヌのワインとボルドーのワインの違いはテロワールにあるという意味?」
「ん。サンテミリオンとポムローヌのワインは、いまでも古くから伝承されてきたメルローとカベルネ・フランを使用している。とくにポムローヌの生産者は80%ちかくがメルローを中心に作っている」
「古くから伝承されてきた・・って、カベルネ・ソーヴィニオンは違うの?」
「カベルネ・フランとソーヴイニオン・ブランの交配種だ。作られたのは1600年代後半だ。1700年代になるとメドックの生産者たちがしきりに使い始めている」
「あらま、そんなに新しいセパージュだったの?」
「誰が発見したかは藪の中で判らない。最初はプティ・ブードルと呼ばれていた。カベルネ・ソーヴィニオンと名前を替えたのは1700年代後半からだよ。1783年にポイヤック知事だったデュプレ・ド・サン・モールが『プティ・カベルネ・ソーヴィニヨン』と言い出してね、これが定着した。パリ革命でボルドーが大混乱に陥る直前の話だ。
カベルネ・ソーヴィニオンを積極的に使用したのは、シャトー・ムートンを買い取ったロートシルト家だった。
革命の血の粛清の中で、ドサクサに紛れて多くの畑が革命政府によって競売にかけられた。そのときにロートシルト(ロスチャイルド)家が手に入れたんだ。」
「あ~そうねえ。昔からロートシルト家のものだと勝手に思い込んでいたわ。そんなことないわよね」
「ロートシルトは、新しく自分のものにしたムートンでカベルネ・ソーヴィニオンを積極的に育てた。それとシャトー ダルマイヤックだ。この二つのフラグシップがカベルネ・ソーヴィニオンを寵愛したおかげで、メドックにメルロー/カベルネ・フラン/カベルネソーヴィニオンという図式が出来上がったんだよ。しかしドルドーニュ川左岸は、これに準じなかった」
「どうして?」
「メドックにはない中央山塊がもたらす石灰岩土壌の風合いを守ろうとしているんだろうな。それともっと決定的なこととして、こちら側は20世紀に入るまでボルドーじゃなかったんだよ。だからナポレオン三世に命令されたボルドー市が五大シャトーを決めた時、こちら側のワインは視野の中に無かった。それがペトリュウスが五大シャトーに入っていない理由だ」
「なるほどねぇ」
「まあ、自律自尊の強いドルドーニュ川左岸・リブリヌの民だからな、自分の作品にランク付けなんぞして欲しくないという気持ちもあるだろう」
「今までの歴史を聞いていると、とてもその気概がよく判るわ」
「ドルドーニュ川左岸の生産者たちは、今でも伝統的なセパージュを使って更なる高みを目指している・・ということだ」
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました