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ご府外東京散歩#05/世間胸算用

井原西鶴の「世間胸算用」に織田作之助がこんな現代語訳をつけている。
「町筋に中店を出して、商いにいとまなく、金は水のように流れ、白銀は雪のようだ。富士山のすがたもゆたかに、日本橋をわたる人の足音は滝の音のように開かれる。本船町の魚市は、毎朝の売上帳が大へんなもの、広い海とはいえ浦浦に魚の種がよくつきぬものだと取沙汰している。神田須田町の八百屋ものは、毎日の大根が黒馬に積まれて数万駄もつづくありさま、まるで畠が歩くようだ。半切に移しならべた唐辛子は、とんだ秋たけなわの竜田山を、武蔵野に見るおもいがする。瀬戸物町、麹町は黒雲を地に見る盛況、伝馬町に綿を積んだところはまるでみよしのの曙の山々で、夕べには提灯が連なって道が明るく、大晦日の夜に入って、一夜千金の大商い、ことに足袋、雪駄は、諸所方々の買物の買い納めで、夜の明け方に買いにくる。ある年、江戸中の店に雪駄一足もないことがあった。幾万人が履くのか、こんなことになるのも日本一ひとの集る土地だからである。」
神田多町に「青果市場」ができたのは貞享3年(1686)。明暦の火事以降である。
巨大化する江戸は巨大化する消費空間になった。そのため幾つもの市場が生まれた。さまざまな問(物資のことをそう呼んだ)を扱う問屋が無数にできた。これらは組合の形で整合が取られるようになっていく。
取引のツールとして使用されたのは徳川幕府(国家)が発行する貨幣である。幕札も存在したがその使用は地域的に限られており、全国的に使用されるのは国家を統一した徳川幕府が鋳造する貨幣だった。
つまり物々交換の残滓でもある石高制に、流通しやすい(国家による信用が付加された)貨幣を同時並行させたのが徳川幕府(国家)の経済政策なのだ。貨幣を利用することで「価値の交換」は極めて容易になる。これは古今東西何れも変わらない。生産物(米塩乾物等々)は生産物と交換されるのではなく、いちど貨幣化される。そして貨幣化されることによって、所有物劣化による利益損失から逃れることができ、富の(一見恒久的な)蓄蔵が可能になるのである。
そして同時に統治力(武力)は持っているが、自らが生産することはない国家(徳川幕府)は、貨幣発行権を持つことで(自らの信用を背景にした)膨大な富を創造する権利を持つ。それが鉱物である金を利用した兌換貨幣であったとしても、鉱物である金の発掘鋳造権を国家が握る限りコンペチタ―は存在しない。不動の位置となる。・・しかしそれは、あくまでも、国家としての信用を背景としている・・という裏付けがあっての上である。

そして、こうしたマーケットの巨大化は、必然的に取り扱い物の量と種類の増加を望み、物流量の確保を望む。
「下りもの」だけではフォローできない「下らないもの」近在のものも、当然増加方向へ走る。増加できなければ(できないもの)はとうぜん高くなる。
当初の官製新田開発と村単位での新田開発に続いて、投資型の新田開発が始まったのはマーケットの原理からである。もし幕府がこれを認めなければ、物価は青天井に上がって江戸の生活基盤は崩壊しただろう。八代吉宗は,享保7年7月(1722)江戸日本橋に「新田になりそうなところは、幕府の責任で開発を申しつけるから申し出るように」と高札をだした。そして投資代償として開発資金の一割五分を限度として毎年その新田から小作料を取ることを認めた。彼らが投資対象とした新田の大半が畑地であったことは前述のとおりだ。そしてその畑地の開発地は際立った特徴があった。水田は用水路の左右に作られる。しかし畑地は街道など道路の傍らに作られたのである。最初からロジスティックルートを見込んだうえでの開発を行ったのだ。そして労働力(小作人)として、近在の農夫を集った。原則的に農夫は兼業も転業もみとめられていなかったのだが、そのお触れは、なし崩し的に壊れていき、農家の分解を促進した。畑を手放し小作人になる者が多数輩出することになった。もちろん田畑の転売も幕府は公式には認めていなかったが、最終的には黙認され、地方に豪農を生むきっかけになっていった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました