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ヘミングウェイが見たベニス#01

僕ら夫婦が最初にベニスを訪れたときは、イタロを利用した鉄路だった。リベルタ橋を渡ってベニスに入った。
リベルタ橋は象徴的だ。ほぼ4kmの長さで鉄路はラグーンを抜けて島に入るのだ。まるで中世へ向かうための通過儀礼のような印象がある。駅はサンタルチア駅。島の西方にある。
車で行っても同じで、ラグーンに架けられた橋を渡って、駅の右隣の駐車場に入る。島内は車両進入禁止なのだ。
僕らは、駅前にあるローマ広場で、車文化/20世紀から切り離される。

リベルタ橋は、ムッソリーニ時代、リットリオ橋と呼ばれていた。それが戦争に負けてリベルタ橋Ponte della Libertà(自由の橋)と変じた。「リットリオ変じてリベルタとなる」大道洋食のカツレツみたいなもンだ。日比谷通りをマッカーサーが日々御幸されるので「マッカーサー通り」と名前を替えなかった役人たちの叡智を我々は讃えよう。(しかし東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイに勲一等を与えた佐藤栄作は許さない)

さてこのリベルタ橋だが、オーストリア帝国支配下のロンバルド=ヴェネト王国時代の1846年に開通したものだ。トンマーゾ・メドゥーナの設計で、1841年から45年にかけて建設された。開通は1846年1月。時代はまさに"鉄道の時"だった。
陸路による輸送は、大きく鉄路へシフトチェンジし初めていた。イタリアに、半島全員を巻き込むリソルジメント(イタリア統一)旋風が吹き荒れる前夜の話である。そして人々が、イタリアの未来は工業国化にあると信じていた時代でもある。
交易だけで生きてきたベニスの商人たちもまた、その波に乗ろうと八面六臂していた。彼らはラグーン陸側に土地投機すると共に整地、産業革命によって産み出された新しいタイプの工場を建築しようと動き始めていた。そのためには鉄路が必須である。

伝統的にベニスの商人たちは、時の中央政府に必ず深く鎹を打ち込んでいる。ロンバルド=ヴェネト王国時代も、それに続く普墺戦争以降の第3次イタリア独立戦争後のイタリア王国にも、そしてファシズム政権時代も変わらない。この島と本土を繋ぐ鉄路は、まさにその象徴だと云えよう。
車窓すべてを染めていた青い海と見紛うラグーンが途切れ始めて、向こうに島の輪郭が見えるようになると、すぐさまドゥカーレ宮殿が立ち現れる。そして鐘楼のある広場が大きく広がっていく。まるでベニスの歴史を疾走するような・・印象があるコースだ。

「此処で、パパは戦ったんだ。」
僕が言うと、嫁さんは読んでいたガイドブックを置いた。
「パパって、あなたのアイドルのパパ?」
「ん。パパ・ヘミングウェイ。彼が19才の時だ。」
「19才?ヘミングウェイってアメリカ人でしょ?なぜ19才で、イタリアに居て戦ったの?ヘミングウェイってイタリア育ちだったの?」
「いやいや、生粋のシカゴっ子さ。高校卒業後にカンザス地方新聞The Kansas City Starの記者になったンだけどね、第一次世界大戦が始まると、さっさと退社して赤十字の一員として欧州戦線へ参戦しているんだ。・・そのとき、彼はこのラグーンに蹲ってオーストリア軍と戦ったんだよ。」
嫁さんは呆れ返った顔をした。
「ヒトんちの喧嘩にわざわざアメリカから参加したの?」
「・・まあ・・そういうことだ。」
「それで沼地に蹲って鉄砲を撃ったの?」
「ん。で・・大怪我しちやった・・」
「それって・・」
「たのむから、みなまで言うな、」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました