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ボージョレーのワイン流通構造を激変させたパリ革命/beaujoLais nOuVEauに秘められたLOVE#11


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1789年7月のパリ革命は、ワインの世界にも多大な変化をもたらした。
ブルゴーニュでは、葡萄畑の所有者たちだった貴族/僧侶は、すべて十把一束で断首台に送られてしまいました。そして、彼らの土地は小作人たちに細かく分配された。いまでもブルゴーニュ地方は単一地主の畑が少なくて、一つの畑を複数の農家が持っているケースが大半な理由はこれです。

ボルドーでも、同じく貴族/僧侶はすべて断首台に送られましたが、残された畑は富豪たちに払い下げられました。持ち主が変わっただけで畑は守られたのです。
その二つの違いが何故あったかについては、別稿で書いているので、ここでは触れません。ボージョレー地方にも、革命の嵐は吹いたことだけ書きたいと思います。


当時、この地方はブルボン家の分家の一つであるオルレアン家の領地になっていました。領主はルイ・シャルル・ドルレアン(ボージョレー伯)です。フランス国王だったフィリップ・エガリテの弟です。エガリテはパリ革命を支持した王でしたが、彼自身は革命政府によって斬首されています。しかし、ボージョレーの領主だったルイ・シャルル・ドルレアンは斬首されませんでした。兄の凄惨な死を見たこともあって、おそらく彼は革命軍に従順だったのではないかと思われます。しかし、その領地は取り上げられました。革命政府は、それをブルゴーニュ地方と同じように、そこで働いていた小作人たちに分配した。そのために1800年代に入るころには、現在のような2ヘクタールから5ヘクタールくらいの農家が群居するという、ブルゴーニュ地方と同じような形が出来上がったのです。


ところがですね。革命の嵐の後、同じように分配された小作人たちですが、ブルゴーニュとボージョレーでは、全く違う方向へ進んでいったのです。
ブルゴーニュは、過去所有者が有った畑。区画が、その名前を残したままになりました。つまり村名あるいは地区名として残ったのです。したがってコルトンの誰がし、シャンベルタンの誰がし、と表示するようになった。作付け・収穫は、区画単位で互いに協力し合いって行いますが、原則的にそれ以上の連携にはなりません。もちろんネゴシアンは存在し、流通は彼らに委ねられますが、ボルドーのようなネゴシアンが農家を支配するという関係にはなっていません。

比してボージョレーは、古くからすぐ近くに城塞都市リヨンというマーケットを持っていたので、革命政府によって小さい単位へ分化された農家は組合形式でまとまりました。
ボージョレーのワインは、ブルゴーニュのものと違って早飲み型です。自前でストックして寝かせるタグイのワインではなかった。したがって、出来上がったワインは(樽単位で)すぐに出荷しなくてはいけない。小さな農家が、それを独自の力で行うのは不可能です。そのため早い時期から組合形式が、ボージョレーでは確立していったのです。こうして、栽培から醸造・瓶詰め・出荷・販売まで、各ポジションにおける分業化は健全に培われていきました。
また、小さな畑しか持てないために、安価なワインを作って売るだけでは、とても生活できません。なので同時に牛を飼ったり、他の作物も作る兼業農家ばかりになりました。兼業と分業。これが当時のボージョレー農家の特徴です。


パリ革命は、もうひとつ大きな僥倖をボージョレーにもたらしました。それは、城塞を越えてリヨン市に入るために必要だった"入城税"が撤廃されたことです。なおかつパリへの輸送ルートが大きく改良整備されたとき、このボージョレー式組合組織は、きわめて高機能に動きました。ボージョレーは、まさにフランス農本位制の理想的。典型的な地域になっていったのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました