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リブリヌ01/サンテミリオン村歩き#25

https://www.youtube.com/watch?v=UGuLRCcIsWY&t=1065s

サンテミリオン村郊外西側のワイナリーを歩くのにChâteau Hôtel Grand Barrail(ROUTE DE LIBOURNE, D243, 33330 Saint-Émilion)を起点にしたとき、もう一歩先のポムローヌまでを散策地として考えたが、徒歩で歩くにはシンどいので流石に諦めた。
http://www.grand-barrail.com/
ポムロールは、ペトリウスやル・パンなど素晴らしいワイナリーが有るが何れも一般公開はしていない。出かけても農園とワイナリーで写真を撮ってハイ終わりになるので、別の機会にしようと思ったのだ。
実はその時に考えたのはリブリヌの町のことである。考えてみると、小ボルドーであるリブリヌについて真面目に歩いたことが一度もなかった。ならば、リブリヌ散歩のときにポムローヌは出かけてみようと思った。


リブリヌ駅はボルドーSaint-Jean駅からサンテミリオン駅へ向かう途中にある。ボルドーから40分程度。ボルドーから二つ目、サンテミリオンの一つ前になる。国道D670とD243がサンテミリオンとリブリヌを繫いでいる。
なぜ、ポムローヌ歩きはリブリヌを起点にしようかと考えたかというと、いままで何度もボルドーへ通っていながら、小ボルドーでもあるリブリヌを真面目に歩いていなかったからだ。
リブリヌはボルドーより旧い町だ。青銅器時代には、既にブルターニュからランクドックルションへ、錫交易の中継点として栄えていた土地だった。支配はリグリア人が握っていた。

リグリア人は太古、イタリア半島の北西部から地中海西側に広がっていた民族である。ケルト人との親和性が強く、ローマの支配について反感を抱いていた人々だ。彼らはラングドックルションを中心にフランス中央山塊西側に広がっていた。彼らがブールジュのビトゥリゲ族から錫を買い、それをドルドーニュー川を利用してベルジュラックBergeracへ運び、残りは陸路で地中海側に運んでいたのである。
リブリヌの古名はKendatenという。これはケルト語のken-datt(合流する)から派生した言葉だ。ドルドーニュ川とイール川rivière Isleが合流する地という意味だろう。おそらくケルト人たちはイール川を利用して錫を運んでいたに違いない。リグリア人はこれを交易地Kendatenで受け取り、ドルドーニュ川航路へ載せ替えた。ドルドーニュ川は、ジロンド川の影響を受けて満月/新月の大潮の時は川が猛烈な勢いで逆流する。その逆流する勢いに乗って、リグリア人の船はドルドーニュ川の奥深くまで、錫を載せて遡った。・・このルートは紀元前5世紀まで続いた。しかしイベリア半島に広がったフェニキア人/カルタゴが、さらに支配領域を北へ広げガスコーニュまで及ぶと、リグリア人は撤退し、リブリヌとブルターニュを繫ぐ錫交易のルートは彼らのものになってしまった。
第二次ポエニ戦争によってカルタゴが滅亡するまで、ジロンド川/ドルドーニュ川は彼らのものだった。
彼らが去った後、同地は、なし崩し的にブールジュから流れてきたビトゥリゲ・ヴィヴィスク族のものになるが、新開拓地を求めてローマの退役軍人たちが入り始めると、今度は次第にローマ人たちのものになった。ここをローマのものにしたのは、退役軍人たちだった。彼らがドルドーニュ川左岸に葡萄畑を広げたのだ。ローマが凋落した後もリブリヌは、この退役軍人が開墾したドルドーニュ川左岸の葡萄畑から作られたワインの交易によって細々と糧の手段を得ていたのである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました