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黒海歴史紀行: 夜明け前からローマ滅亡まで

ウクライナにある製粉工場だった。そこに設置する50リューベのアルミのタンク(spitter製)を何台か、オデッサのすぐ傍にあるチェルノモルスク港へ持ち込んだ。家内と結婚したばかりのころだから・・40年近く前の話だ。
僕が随伴したのは、相手側に当時まだ正常なFOBを行えるほど与信力がなかったからだ。
50リューベの空のタンクは美しい。そして相当な大きさだ。これを載せた貨物船は地中海からマルマラ海峡へ入りボスボラス海峡を抜けて黒海へ入った。チェルノモルスク港は黒海の北の外れにある。黒海に入ってからも長い旅路だ。
僕は誂えられた船室で、相変わらずMitsubishi製のシーケンサーを弄っていた。今回の話は、ゼロから構築ではなく既存設備の増設と改良だったから、課題としてはかなり難物だった。それもあって船内で独りきりになってシーケンサーと対峙できるなら、それはそれで善しと思って、随伴を請けたのである。
それと黒海だった。
黒海を渡ってみたかった。
理由は詩人オウィディウスの「黒海からの手紙Epistulae ex Ponto」だ。彼はアウグストゥス帝の逆鱗に触れ、黒海に面した小さな村に幽閉された。詩人はこの海を見ながら悲嘆の中に死んだ。
その彼が見つめた海を僕は辿ってみたかったンだ。

この内海を「黒い海」と呼んだのは誰だかわからない。前述したようにこの海は6000年前にはなかった。
ある日、地中海との間に有った陸橋が破れ、海が怒涛のように流れ込んだために一年余りでできた内海である。人々は既に言葉を持ち、農業を営み牧畜を始めていた。実はコーカサス地区はその先駆だった処だ。それがたった一年で海中に沈んだ。この大惨事は「大洪水時代」として深く人々の記憶に刻まれている。
人々が此処を「黒い海」と呼んだのは、その衝撃的な天変地異のためかもしれない。
文字として「黒海」が初めて記せられるのは古代ギリシャである。彼らはポントス・アクセイノスPontos Axeinos「暗い海」と書いている。もちろんそれは同地の人々の呼称をそのままギリシャ語にしたものだろう。

たしかに僕が航海中に見た黒海は、エーゲの海より黒かった。そのことを仲良くなった二等航海士に聞くと彼はこともなげに言った。「深いンですよ。この海は。だから海面がより暗く見えるンです。」
なるほど・・エーゲ海を抜けて入り込んだとき、その暗さが何よりも際立って見えたから、その凄惨な天災を知らなかったとしても此処を「Pontos Axeinos暗い海」と呼んだのかもしれない。そう思った。
ところがギリシャは、黒海内にあった幾つかの地域と交易を始めると、この海を「ポントス・エウクシヌスPontos Euxinus「客あしらいの上手な海」と呼ぶようになっている。その言い回しには、交易の民ギリシャ人の匂いが際立っていて面白い。
ところがビザンツ時代になると黒海は、ただ「海Pontos」と呼ぶようになる。
これは僕らが隅田川を「大川」と呼ぶのと同じだろう。わざわざ固有名詞をつけるまでもない、ただそこに在り、海と呼ぶだけで従足する存在だったから・・ちがいない。
モスレムの人々はブントゥスbahr Butusと呼んでいる。「海の海」という意味だ。

交易の時代に入ると、材木等と共に・・実は多くの奴隷狩りがこのあたりで行われた。それもあって奴隷はslave(スラブ人)と呼ばれたのだ。
こうした交易商人たちは、この海を「豊穣の海Mare Maius」とか「偉大なる海Mare Maggiore」と呼んだ。まったく勝手な言い分だ。あるいは黒海内にあった交易地に因んだ名前で呼んだ。たとえば「スキタイ人の海」「サルマタイ人の海」「ハザール人の海」「ルーシ人の海」「ブルガール人の海」「グルジア人の海」等である。ちなみにモスレムの民は、地中海を「ローマ人の海」と呼んでいる。おそらくXXX人の海というのは、通称として船乗りたちの間では一般的だったのかもしれない。

さて。欧州である。西ヨーロッパに残されている文献の中に「黒海」が頻出するようになるのは14世紀ころからである。パンタスPontusあるいはヨクザインEuxine等と記されている。シェークスピアはオセロの中のセリフに黒海を登場させている。彼はポンティアック海と呼んだ。怒り狂ったオセロのセリフの中にその名前が登場する。シェークスピアは、黒海の「黒」という言葉に強い情念と怒りを込めて使用しているのだ。一般的な欧州人が「黒」をあまり好まないのは・・アジア人との大きな違い・・黒から連想されるものが、シェークスピアと同じものだからかもしれない。

ああ・・もう少しSpitterの50リューベタンクを背負って黒海を縦断した話の続きを少ししたい。
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国からウクライナ共和国へ独立宣言した直後の話である。おそらく弊社がオデッサから西へ数10km離れた川辺にある製粉工場の一部リニュアルを請けたのも、この独立宣言があったからだと思う。しかし社内には猛烈な抵抗があった。1986年4月26日からまだ大して時間が過ぎていない。そのうえ責任を取るべきソ連が崩壊し、チェルノヴィリは未だブラックボックスのままだったからだ。「そんなところへ重要な技師を派遣するのか!」という議論である。しかし弊社代表は頑固だった。「パンがなければ民は飢える。われらが向かわなければ民は飢える」と。

・・国家とか国境とかにある種陶酔感を抱く人々は、この話に戸惑いを抱くだろう。
僕らは商人だ。機械を売る商人だ。国境は鳥のように雲のように跨ぐ。そして交易が、最大の国家間戦争の抑止力であることを知っている。EUを見てごらん。欧州連合が生まれて以来、あの地域にはただひとつも国家間戦争は起きていないんだよ。これが商いの価値だ。だから望む者には誠意をもって我々の知恵と技術を売る。真似されても盗まれても。真似されたら・・盗まれたら・・もっと優れたものを作る。
・・それにしても工場は鉄くずの残骸のような錆びだらけの塊だった。見るなりウチのスタッフが言った「全部、ピカピカに磨けば、それだけで動くぜ」
僕に宛がわれたのは工場内にある宿泊設備だった。ベッドまで緑青の臭いがした。本社との通信は、当時ようやく実用化してきたメールを使用した。通信は電話の受話器にカプラーを被せてピーズーカーとやった。ところがしばらくすると、これが差し押さえられた。アヤしい・・というわけだ。まだウクライナにはロシア時代の血の残滓が残っていた。

さて。ウクライナだが・・始まりはキエフ(ルーシ)大公国である。スラブ族とフン族の地だ。異教の地である。
この地にキリスト教が入ったのは10世紀に入ってからで、以降中世ヨーロッパで最も隆盛を誇った。しかし1200年代に入るとモンゴル帝国の攻略を受けて、実質解体に至った。その後紆余曲折を経てリトアニア大公国とポーランド王国に併合されている。
しかしその血は、スラブ族とフン族を継ぐルーシ人である。誇りと名誉を最も貴ぶ人々だ。
工場で付き合う技師たちも殆どがルーシ人だった。その性格はマジャール人に近似している。弊社の金髪碧眼の人々は今1つ彼らに馴染まなかったが、僕自身はかなり彼らと近しい精神世界だったので、言葉の壁を越えて強い仲間意識を抱いた記憶がある。
彼らと休み時間に通訳を介して話をしているときに、ハッと思ったことがある。それは彼らが指す《海》Moreとは黒海なのだ。
なるほど!と思った。ウクライナ語ではチョールネ・モーレChorne Moreなはずなのに、彼らは単にMoreと言った。
「そうか、あのタンクはMoreを使って運んだのか?!」と・・
彼らと話せば話すほど、僕は黒海とその周辺の国々に強い興味を抱くようになった。
もちろんそれは、地中海に繋がる最も近しい《海》としての黒海である。
樹を下りたサルは致命的な遺伝形質を抱え込んでいた。それは世代を重ねると脳が肥大化するというものであった。そのサルたちを我々はヒトと呼んでいる。
産道は腰骨の間を通っている。胎児がこの通り道より大きくなると死産する。母子とも死ぬ。サルの胎内期は18か月である。
農が肥大化する形質を持ったサルは、ある限界域を超えるとすべて死産し母も死んでしまう。そのため人類は原人も旧人もすべて絶滅している。
唯一絶滅しなかったグループがいる。それは子を超未熟児10か月で産んでしまう種族だ。しかし普通より8か月も早く産まれてしまう子を守るのは至難だ。そのためにオスメスは鳥類のようにつがいになるしかなかった。つがいをベースとした群れをつくるしかなかった。その一夫一婦制をささえるために、メスの蠱惑がうまれ、オスメス間の絆を支えるものが生まれた。それは「愛」というものに昇華された。一方、圧倒的な弱者である子には、絶対に己の命を保護してくれる存在が人格形成期の未明からプリントされる。それはそのまま「神」なる概念へ繋がる縁になっていった。
この超未熟児を産むヒトの集団は、極めて危うい偶然の間を綱渡りしていたことが判っている。最後の氷河期である。種族は2000個体程度まで落ち込んだであろうことが、現存するヒトたちのDNA解析からわかっている。彼らは生き残れる場所を求めて、北へ北へと広がっていった。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました