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LAST FRIGHT OF SAIGON#13/オペレーション・ベイビーリフト

フォードは機を見るに敏な男だ。彼が1975年4月3日、カリフォルニア州サンディエゴでの記者会見でオペレーション・ベイビーリフトOperation Babyliftの名前を出した。

73年より始まったアメリカ軍の撤収を受けて、ベトナムは共産軍によって急速に蚕食されていた。南ベトナム政府はそれを防げることができなかった。人々は難民化し、何万人も国外へ逃亡、無数の悲劇が起きていた。南ベトナム政府は、国外脱出を法律で厳しく禁じたが、止めることはできなかった。

そのうねりの中で、ベトナムでもカンボジアでも、多くの幼児/子供たちが亡くなっていった。戦争で死ぬのは先ず弱者からだ。そして一番の弱者は幼児/子供だ。そうした飢えや伝染病/事故で命を落とす子供たちの姿が多数報道されると、心痛める人々がアメリカ国内にたくさんでた。実は、この時期こうした孤児たちが多数アメリカ人家庭に養子として引き取られているのだ。このことはあまり知られていない。

そして、いよいよ戦火がひっ迫してくると、国際養子縁組を仲介している慈善団体Holt International Children's Services/FCVN/Friends For All Children, FFAC/カトリック救援奉仕事業/国際社会奉仕事業/インターナショナル・オーファンズ/パール・バック財団らが、戦火の中であたら命を失っていく子供たちの退避を助けてほしいと・・アメリカ政府に嘆願した。フォードはこれをすぐさま承認。1975年4月4日から孤児たちを避難させるという「オペレーション・ベビーリフト」の開始を命令したのである。

4月4日、子供たちと避難民を乗せるため、タンソンニャット空軍基地へ第60航空機動航空団のC-5ギャラクシーが到着したのは午後一番。C-5は300人以上の乗客(少なくとも230人の孤児を含む)を乗せフィリピンへ向けて飛び立った。しかし上昇中の約14分後、飛行機が23,000フィートまで上昇したところで、突然後部貨物部分が爆発。C-5は航行不能になり空港から約5マイルの田んぼに墜落した。・・すぐさま救出作戦が行われたため149人の孤児を含む乗客の半数以上は救出されたが、あまりにも悲劇的な始まりになってしまった。

しかしそれでもベビーリフト作戦は4月4日から5月6日まで続いた。
救出部隊は、C-141スターリフターを使用する第60、62d、63d軍事空輸部隊と第514軍事空輸部隊が担当した。彼らは、サイゴンからの949人のベトナム人の孤児と、タイのウタパオからのカンボジア人の孤児を救出し、フィリピンとグアムの米国の基地に運んでいる。その後、移送を引き継いだ別チームがハワイのヒッカム空軍基地へ移送。それからMcChord AFB、ワシントン、カリフォルニアのノートンおよびトラビスAFBから、カリフォルニア、ワシントン、ジョージアのレセプションセンターへ送り届けられた。

結果として、ひと月で1,794人の子供たちと884人の幼児をアメリカ国内へ送り届けた。この2,500人以上の難民の子供たちき、ほとんどが米国内で養子先を得ている。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました