見出し画像

黒海の記憶#44/形骸化するビザンチンによる支配

いままで「東ローマ人」という名称を使ってきたが、そろそろ「ビザンツ」と呼び名を替えたい。実は同時代、彼らは自分たちのことを「ビザンツ人」と呼んでいなかった。中世ヨーロッパの歴史家たちがそう呼んだのである。
たしかに彼らを、たとえ"東"という字をつけようが「ローマ人」と呼ぶのは息苦しい。ラテン人の血はほとんどなく、構成要員は大半がアナトリア系の人々で、言語もコイネー(汎ギリシャ語)の変形だったからだ。ローマに強い恋慕を潜在的に持っている中世ヨーロッパの歴史家たちが、このアナトリア/バルカン半島に遺ったローマ帝国の残滓を、ローマの正統的な後継者であるとするのは不快だったに違いない。彼らにとってのローマは、東西に分裂しゴート人たちの侵攻を受けて総崩れしたとき・・滅んだのだ。しかしその滅んだ後に、不死鳥のように幾つもの都市国家が成立し、同時に母なるエウロパの地に、その後継者たちが新しい血を紡いだ・・としたい、のだろう。
そこには間違いなく、正教徒とカトリックに分裂したキリスト教の思惑が深く重なっている。
いうまでもなく、いつでも歴史を紡ぐのは成功者だ。

・・ここでも、その慣習にしたがって、いつの間にやら雲散した「東ローマ人」というアイデンティに替わって、継いだ者をビザンツ人/ビザンチン帝国と呼ぼう。
そのビザンツ人たちは、黒海の向こう/心理的には最果ての地・・実は船で三日程度しか離れていないクリミア半島とその外側に住む人々を、十把一絡げで「サルマタイ人」と呼んでいた。騎馬半農民族はそんなに単層的ではない。サルマタイ人そのものを輻輳的に幾つもの部族が絡まり習合断裂を繰り返し、覇者はその時によって色々と入れ替わっているのだが、ビザンチン人たちは構わず彼らを「サルマタイ人」と呼称した。したがってビザンチン帝国に残された史料から黒海北方ステップに交錯した彼らについて探るのは至難だ。ましてや、ビザンツ人と彼らの交易は黒海海岸部を支配する部族とのみの間で行われていたので、内陸部がどうなっているかについては風聞以外に知る手段が無かったのである。その意味ではやはり、同地は「最果ての地」だったのかもしれない。
それでも海岸部については、思い入れがあった。
特に東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝時代(527年-565年)は、古い黒海貿易栄華の時の再興を夢見て、打ち捨てられていた港を再建し新しい交易の道を得ようとした。東ローマ「秘史」の著者プロコビオスによると、ユスティニアヌス二世は熱心にクリミア半島・パンティカパイオンとケルソネソスの再興を目指した。しかしそれ以上に彼の頭の中にあったのは、クリミア半島が他の者の手に渡ることをいかに阻止するかということだったに違いない。それでも北の人々の進出は絶えることなく続いた。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました