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熊野結縁#03/紀北紀中紀南

となると・・やはり徳川一族が見た紀北・紀中・紀南を俯瞰的に習ってみるのが順当なように思う。
書いてみる。
紀北は紀の川を中心に栄えた。和歌山平野は河口を真ん中に置いて大きく広がる。そしてそのすそ野はそのまま大阪に向けて淡路島を眼前に広がる。古代倭文明の掌である。
倭の民は、紀ノ川を遡り上・中流域に生活と産業の場を広げた。実は同地区には多くの旧石器時代の遺跡がある。そしてそれらは多くの集落はそのまま古墳時代に繋がっている。そして律令による紀伊国分寺は此処に置かれた。それはそのまま荘園時代へ続き、桛田荘/荒川荘など荘園が立ち上がっている。
そして紀ノ川の奥座敷には空海が、高野山に金剛峯寺を開創した。
すべてコアになったのは、紀ノ川と和歌山平野である。
家康は、その地を10男・頼宣のものとした。石額でいうと555,000石である。
江戸時代の紀伊の国の主産業は木綿織物生産である。漆器生産は海南市黒江周辺に開けた。西国三十三所霊場第三番札所である粉河寺の門前では粉河酢が醸造されている。現代和歌山市の地場産業は製鉄業や化学工業、繊維工業などだが、その萌芽は既に江戸時代から始まっているのである
こうした産業が、徳川家を富豪にしたのである。

もう一歩、海岸線を降りると有田川/日高川に出会う。この辺りが紀中である。
この二つの流域にも上古から人々が暮らし、紀北に負けない数の集落遺跡や古墳、城館が築かれていた。
しかし産業は、この辺りから農林と水産へ偏っていく。現在でも有田は蜜柑の国内最大の生産地であり、みなべ・田辺の梅栽培も国内最大である。南高梅ブランドの梅干しが有名だ。
そして醤油醸造である。湯浅周辺では室町時代から醤油が作られている。紀州藩はこれを産業として振興を推しはかりユアサは全国に広がっている。

もう少し下ると紀南になる。紀南は主たる川筋に付帯する平野が少ない。唯一大きいのが熊野川河口の新宮である。今回訪ねる熊野速玉大社はここにおわします社だ。いわゆる熊野三山は紀南にある。
熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社・那智山青岸渡寺である。
上古から人々の営みは有ったが、原則は海路に辿って入ってきた隼人の民である。荘園として確立するのは中世に入ってであり、古墳の数も少ない。
中世にはいってから、熊野川は杉や檜などを材木として運び出す川筋として大いに発展した。またウバメガシを素材とした備長炭は極めて優秀で持て囃された。新宮城には炭納屋群が築かれている。
同時に隼人の血を継いで、同地は漁撈が盛んだ。捕鯨/鰹漁が盛んで、那智勝浦漁港などは現在生マグロ水揚基地として栄えている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました