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GHQボナ・フェラーズ准将#01

第二次世界大戦とは何だったのか。一言でまとめるなら、それは大航海時代より植民地政策で潤っていた旧宗主国(連合国)が、19世紀後半から急成長した日独伊(枢機卿国)を徹底的に叩き潰すために起こした戦争である・・ということでしょう。
僕には、第二次世界大戦は"利害の諍い"を「自由と開放」という"聖戦"にすり替えた戦いだったように見えて仕方ないのです。そのスタンス上から、僕はいつもあの戦争の話をしています。先ずそこから話したいと思います。

ポール・ケスケメティPaul Kecskemetiは、その著書Strategic Surrender: The Politics of Victory and Defeat(戦略的降伏―勝敗の政治学)の中で、「無条件降伏」という第二次世界大戦時に生み出された降伏の仕方について、「戦いに勝った者が、自国で完全にかつ永遠に自由に振舞うと判っていても、敗者は自分の本質的な価値を破壊されないと感じれば、戦いをやめるものだ」と書いている。
何故敗者は無条件降伏を呑むのか・・このケスケメティの言葉はけだし名言です。

たしかに日本国は、ポッダム宣言受諾にあたって「国体護持」が為されるならば、これを受け入れるとした。一億玉砕を叫ぶ軍部の声は、陛下のご聖断によって封じられた。
ドイツはどうだろうか。ドイツナチスも、あの戦いを「聖戦」とした。したがって何れかが絶滅するしかない戦争Vernichtungskriegであり、譲歩による和平はありえなかった。ヒトラーもまた、あの中世欧州世界の長い殺戮の末に得た「ウエストフェリア条約」を無視したのだ。
そのため、戦争末期になるとヒトラーはVernichtungskriegを自国民に向けた。悪夢の「ネロ指令」は敗北戦に塗れているど真ん中45年3月に発令されている。彼は、連合国の悪魔どもに奪われるならばと、いっそのこと自国民の全ての資産を破壊し、ドイツを何もない焦土にせよと指令しているのだ。まさにこれは、負けて何かを残すなら、全てを焼き尽くし全国民は我と共に死せという、指令だった。

"ご聖断"に際して、陛下は「この上戦争を続けては結局我が邦がまったく焦土となり、万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。……日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興と云う光明も考えられる」と仰っています。このお言葉から、独伊(欧州側枢機卿国)の敗戦の経緯と結果を、天皇陛下は外電として正確に御存じだったのではないかと僕は考えてしまう。

陛下のお言葉に、稚拙な「滅びの美学」を説いていた軍幹部は頭を下げた。 ポッダム宣言の中に謳われている「無条件降伏」を、神国日本の敗北ではなく軍部の無条件降伏であると、自ら見なすことで軍幹部は沈黙した。つまり一億玉砕という「滅びの美学」を、オノレが「滅びる美学」へすり替えることで自己満足したわけである。まったくもって・・そんな解釈をすることでしか、日本は終戦を迎えられなかったわけです・・こうして日本は8月15日を迎えました。

もちろん連合軍側は、ポツダム宣言に謂う「無条件降伏」を、日本軍部が勝手に限定した無条件降伏とは思っていなかった。無条件降伏とは負けた犬が腹を見せて転がることである。自己欺瞞に満ちた言い訳を、聞く者は連合軍側には誰もいなかった。
その負けた犬を・・勝者が引き摺り回したか、その後の経緯を見てみよう。

スターリンが征服した国々は、その国の歴史体制に関わらず全てが「無条件」に社会主義化された。 イギリス・アメリカが主導した側でも、まさにその国の歴史体制に関わらず全てが「無条件」に民主主義化された。
前者にとって「社会主義」が絶対善であり、後者にとって「民主主義」が絶対善だったからだ。降伏とは、自らに勝った者が唱える絶対善を呑むことだったのである。

一方、もうひとつの枢軸国イタリアの敗戦経緯を見てみよう。
イタリア社会共和国は1945年4月、ほぼ壊滅状態にあった。連合国が策動するパルチザン活動によって、対連合国戦は既に一枚岩でなくなっていた。内部から壊れていたのだ。コモ湖へ遁走したムッソリーニは逮捕。その場で処刑されてしまった。4月28日。翌々日4月30日にナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕で自殺している。

イタリアの降伏は5月4日である。しかしドイツの終戦は長引いた。たしかに6月5日には連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツ中央政府消滅。米英仏ソ四国による主権掌握が為されたと云う発表はされてはいるが、紛争はその後も(連合国側に勝手に)続いた。最終的な終戦宣言が出されたのは、イギリスとは1951年7月9日。フランスとは同年7月13日。アメリカとは同年10月24日である。しかしソ連とはもっと遅れて1955年1月25日に戦争状態終結の宣言に至っている。
なぜそんなに泥沼化したかと云うと、それはイタリア占領にあたって、イギリス・アメリカとソ連の間に大きな齟齬が出たのが原因である。1943年7月の段階では英米ソ三国は、戦勝後は枢軸国を三国で管理するという約束になっていた。しかしイタリア占領が「英米」が主体で為されると、チャーチルは「管理は英米が行い、ソ連は諮問機関でよしとする」と手のひらを返した。スターリンは激怒した。なので彼は、すぐさまルーマニアに大軍を派遣し、これを占領した。そして続けざまにブルガリア、ハンガリーにも侵攻し、これを自分のものとした。そしてこれらの国は我々が「解放」したので、我々が管理すると宣言したのだ。その混沌を背負ったままヒトラー死後のドイツへ、戦勝国英米フランス・ソ連が流れ込んだわけだ。
これらが「無条件降伏」するという意味である。

たしかに日本は、ヒトラー式の「死なばもろとも」を避けた。 ムッソリーニ的な「自己崩壊」も避けられた。 しかし国体そのものを抜本的に解体してしまう共産主義が迫っていることを正鵠に理解していた者が日本にいたのか?僕は聊か疑問に思ってしまうのです。
おそらく昭和天皇だけがあの瞬間、日本を客観的に正鵠に見つめていたのではないか?
そう思ってしまう。
拙書「日本国憲法」が、昭和天皇の密使という妄想から始めた理由は・・その後の日本国の推移を鑑みて、何もアクションされなかったとは思えなかったからです。

そんな話をマッカーサーの側近GHQボナ・フェラーズの軌跡を追いながら、ポツポツと書いてみたいと思います。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました