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秦の始皇帝は漢人ではない

秦氏のことを書こうとすると、やはり始皇帝のことが思い浮かんでしまいます。始皇帝というのは、中国史の中でも何とも奇天烈な人物です。
彼は紀元前259年、趙国に人質と出されていた子楚(荘襄王)が趙姫に産ませた子供です。史書は趙姫を趙の出身・豪族の娘と書きますが、本当のところはわかりません。趙姫は「趙出身の女性」という程度の意味ですから、正式な名前ではない。正式な名前は伝わっていません。趙は、現在の山西省と河北省のあたりで、中国では北のほうです。司馬遷は、彼女を淫乱姦婦と一刀両断にしています。謀略がお好きな方だったようです。元カレだった秦の丞相になっていく呂不韋との密通や、偽宦官だった嫪毐などが彼女が手玉に取ったの男たちです。ちなみに嫪毐は、趙姫に唆されてクーデターを起こしますが(AC238)失敗。嫪毐は殺され、彼女は雍城に幽閉に幽閉されてしまいます。なんとなくボルドーのアリエノール・ダキテーヌAliénor d'Aquitaineを思わせる女性です。

さてこの趙姫ですが、胡人(ペルシャ系)だったという説があります。深目高鼻・青眼多鬚なシルクロードの西から来た舞姫だったという説です。たしかに彼女の元カレだった呂不韋は西方廻りの商人でしたからね、その可能性は十分ある。
「史記・秦始皇本紀」の中にも始皇帝の風貌につて、人柄について
「秦王為人,蜂準,長目,鷙鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。」と書いています。
一般的な華人の風貌ではなかったことは間違いないですね。
彼が秦の皇帝になったのはBC247年。在位は紀BC210年までです。

実は彼に先立ちユーラシア大陸の西側で世界征服者になった者がいた。アレクサンドロス3世です。彼の侵攻はインドにまで(AC326年)及んでいます。このアレクサンドロス3世に刺激されてインドではチャンドラ・グプタによって、はじめての絶対主義的官僚制国家、マウリヤが台頭しました。アショカ王が現れます。彼は始皇帝より30年ほど前の人です。
実はこのマウリア朝ですが、その政治体制はペルシャ帝国のそれに酷似しています。アジアにおける最初の官僚制中央集権国家でした。

実はですね、始皇帝が敷いた官僚制中央集権国家はこれに近いものでした。華人たちの伝統的な統治法とは全く異質のものだったんです。
どうでしようか、時間軸でこの三人、アレキサンダー/インド・マウリア朝/秦の始皇帝を見つめてみると、ほとんど同時代の人で、なおかつ同じ手法で天下統一をしていることに気が付きませんか?

ところで・・始皇帝の父・子楚(荘襄王)ですが、その出自は月氏です。月氏は中原へ遥か西から入ってきた遊牧民です。典族と呼ばれていた。ちなみに子楚自身も趙に人質としてとらえられていたころは「異人」と呼ばれていました。そして母・趙姫は胡人。深目高鼻・青眼多鬚なシルクロードの西から来た舞姫・・どうでしょうか?始皇帝という人物の特異性がなんとなく透けて見えませんか?
おそらくですね。趙への幽閉時代。幼かった始皇帝は父・子楚と共に訪ね来る西域から人々から、世界のことをたくさん学んでいたのではないでしょうか?華人がいまでも捨てられない中華思想にはテンから染まっていなかったのではないか?そう思ってしまいます。
彼は正鵠に、パミールの向こう、インド・マウリア朝を見つめ、そしてその先の・・それこそ太古から興亡を繰り返す西の帝国かあることをしっていたのではないでしょうか?だとすれば、明晰な彼は強く危惧していたはずです。・・中原で分散集合を繰り返す華人の統治法にです。もし、インドや、その遥か西方の帝国が中原へ東征を図り、突き進んできたら・・ひとたまりもないのではないか??と。・・事実、後代の清国Qīngは、秦Qíngが危惧した道を進み最後の中国王朝になってしまいます。
彼が統一の初めに、丞相の王綰・御史大夫の馮劫ら重臣が薦める周代からの伝統である皇子一族分封の策をしりぞけ、楚の一廷尉だった李斯の案をいれて、三十六の郡県、直属官僚による全地域の中央直接支配を我が統治法としたのはそのためだったと僕は考えます。

この李斯ですが、もとは呂不韋の食客でした。呂不韋は、「史記・呂不韋列伝」によると韓・陽翟出身の大商人です。西方を廻り財産を築いた人物でした。始皇帝の父・子楚のメインスポンサーであり、母・趙姫の元カレです。始皇帝に幼少のころから帝王学を叩き込んだ人です。アレクサンドロスが師としてアリストテレスに就いていたことに似ています。アリストテレスはアレクサンドロスだけを育てるのではなく、彼の部下となる者も同時に育てています。呂不韋も同じでした。呂不韋は月氏を通じて李斯にダレイオスI世の治績を徹底的に学ばせています。また始皇帝の下で最も活躍する工人・鄭国は、インドへ留学させて最新の土木技術を学ばせています。

さて。始皇帝の肖像ですが、一番よく引用されるのは明代に作られた『三才図会』のものです。
んんんん。ちがうなぁ、こんな人じゃなかったと思うな

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました