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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#05

2月25日以降、B29は殆ど毎日毎夜東京の空を飛んだ。爆撃は続けられた。しかし相変わらず高々度からの投擲なので精度は供わなかった。同時に悪天候が続いたこともあって殺戮の成果はそれほど高くなかった。そのことでカーチスルメイは強く詰問されていた。彼は成果を出すために自国兵士にリスクを背負わせることを厭まなかった。図体のでかいB29の低空飛行は、安易に迎撃目標になる。それを知りながらカーチスルメイは、作戦の変更し、低空での空爆へ向けて訓練を始めていた。

一方、日本側の迎撃態勢はままならなかった。兵站の確保は、はっきりと滞り始めていた。となればお得意の「精神論」である。「不撓の心を持って米英鬼畜と戦え!」いう鼓舞が大声で叫ばれていた。しかし、ではどう戦うのか?そんな具体案は何もなかった。帝都攻防のための準備はロクに進められていなかった。

にもかかわらず2月26日、陸軍参謀本部は首脳会議で「本土決戦完遂基本要綱」を決定している。
前線の兵士は枯渇しはじめていた。海軍は予備役の軍医・歯科医を募集(公示)。資格は満23歳からとしている。また東京都は蒙満開拓要員として「青少年義勇軍」募集を3月1日から始めている。年齢は15歳よりとしている。
3月4日。この日もB29、159機のB29が東京の市街地を広範囲に爆撃した。死者は650人だった。

3月4日の石川手記を見たい。
「3月4日 日曜日 曇後吹雪
午前7時 40分頃警戒警報発令された. B 29 数編隊帝都へ侵入するという情報だ朝食も摂らずに本庁へ急行,虎の門で空襲警報発令のサイレンをきく。警視庁に飛び込み直ちに防衛司令部室に至る。既に警視総監,警務部長以下幕僚入室して情報聴取中であった。
空模様は曇天で、今日も又盲爆だ。従って相当の被害があるだろう。果して本郷,砂町地区投弾、猛火天に中してその火勢本庁望楼からよく見える。
数編隊侵入、本郷駒込林町、曙町、千駄木町、宮永町、巣鴨3丁目附近、豊島中学校,中央卸売市場豊島分場等々火災発生した。篠田消防総務課長と同伴、指令車に乗車、本郷、巣鴨方面へサイレンの音も勇しく驀進する。
本郷千駄木町に至れば猛炎渦巻き,団子坂まで来ると林町、千駄木町爆弾数ヶ所に落下、埋没者の発掘に警察官泥まみれとなって活躍しており、次から次へと死体が搬送されていくる。
巣鴨新庚申塚に至り、消防署の望楼に上ってみると3ヶ所に大火災が発生しており、豊島中学校は猛烈に火を吐いている。
西巣鴨の火災現場に至り、篠田課長と燃え盛るの中に入る.煙にむせて涙が出て咽喉がとても痛い消防手の苦労を味った。その苦しい火煙の中で敢然と筒口を握る消防手が神々しくさえ見えた。その火中から漸く抜け出た時,清い空気を腹いっぱい吸って有難味が判った。なにか甘い味がしておいしかった。
千駄木町に来てみると、過般の爆撃によって出来た焼跡に多数の都民が避難しており、その周囲は炎々と燃え盛っている。それに加えて無情にも雪さえ降りしきって来て、全く地獄絵図だ。家族を呼ぶ声,幼児の泣く声、怒号する声、とても想像もつかない情景である。その実情、周辺を撮影、視察を終えて自動車まで戻ってくるころは、風さえ強くなり吹雪となった。あの罹災の人々はどうなるだろうと思うと胸が痛くなる思いがする。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました