見出し画像

コリョサラムGoryeo saram#06/アゼルバイジャンのバクーにて#06

国境を越えて朝鮮半島を北へ渡った朝鮮人が沿海州に現れたのは、同地が清国からロシアのものになってからだった。清朝は朝鮮人の移民を許さなかった。比してロシアは朝鮮からの難民を見逃した。難民は大半が農民だった。主に北方朝鮮族と東方日本海側の朝鮮人たちだった。

1910年、日本が朝鮮を統治国とした。
その政治的/経済的圧力から逃れるため、多くの農民がさらに極東ロシアへ流民した。ロシアは農地政策を奨励し、国籍がどこであろうと参与し田地田畑を耕すことを許した。そのため多くの朝鮮人が極東ロシアへ国を逃れて移住した。

往時の(不明確だが)史料によると、1923年の極東ロシアにおける朝鮮人は11万280人だった。
1922年12月1日に施行されたロシア共和国土地法典をみると、(革命によって)国内の私的土地所有はすべて廃止し国有化されるとともに、土地を自分で耕作する国民については無期限の土地利用権を与える、としていた。・・これに準じれば、ロシア国籍を持つ朝鮮人は、当然土地を分与される。しかし、ロシアは朝鮮人を同国民にすることを渋った。朝鮮人がロシア国民になることは殆どなかったのである。

1923年での史料をみると、極東ロシアの朝鮮人10万6817人のうち、ロシア国籍を持つ者は3万4559人、持たない者が7万2258人だったという。世帯数で云うと1万7226のうち畑を持つ農家は1万5253世帯。そのうち1万1831世帯(全体の77.6%)はロシア人から土地を賃借していた。国籍を取得していた者は32.4%でしかない。

1924年8月、ポシエット地区党書記長・アファナーシー・キムによると、沿海県の全農民が保有する403万デシャチーナ(1デシャチーナは10925平方メートル)のうち、朝鮮人のそれは4万3095デシャチーナだったという。1/100だ。
1927年・第2回極東地方ソビエト大会でも朝鮮系の代議員がこう嘆いている。
「1923年以来、朝鮮人村の唯一の話題は土地のことであった。沿海州にソビエト政権が立てられた時、朝鮮人にもロシア人と同じく土地を与えると言われたが、今までそれは行われていない。そのような状況のため、我々朝鮮人の活動家は村で権威を失い、まぎれもない嘘つきと思われている。ソビエト化のはじめに朝鮮人に約束されたことが実行されていないために、朝鮮人は飢餓の淵に立っている」と。

実は、極東ロシアに水田をもたらしたのは、こうした流浪する朝鮮人だったのである。極東ロシアは小麦やライ麦の地だ。そこに朝鮮から流民は稲を持ち込んだのだ。米作は小麦やライ麦の2倍以上という利益率がある。収益性が高い。
革命でソビエト政権が立ち上がると、レーニンは新しい極東経済復興事業として「稲作」に目を付けた。稲作はノウハウが大きい。往時の記録に「水田の種蒔き、除草、収穫は手で行われ、耕作だけは朝鮮牛を使った非常に原始的な犂が使用されているが、それさえしばしば鍬の手作業にとってかわられる。仕事の大部分は、腐った有機残存物と辛く有害な蒸発に耐えつつ、水中で行われる……。このような条件下では、米作を支えることができるのは非常に控え目な黄色人種の労働力だけである」とある。
稲作は「我慢強い」朝鮮人に向いた農作物だったのだ。

スターリンは稲作を奨励した。1928年の史料を見ると、ウラジオストク管区は、全領有面積の水田は74.4%だったが、国営地(全体(41.0%)でいうと、97.6%だったという。
じつはこの「稲作のノウハウをもつ朝鮮人」というレッテルが、彼らに壮大な悲劇をもたらせてしまうのだが・・

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました