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黒海の記憶#41番外/黒海は東洋と西洋の境目にある#03

これほどヘロドトスがスキタイ人について詳細に(『歴史』第4巻)描いたのは、彼らが黒海を北岸における主要な交易相手になったこと、そしてアケメネス朝ペルシア帝国が台頭してきたためであった。
イラン高原に興ったアケメネス朝は、ダレイオス1世の治世時代から熱心に黒海の周辺/北側・東側へ進出を始めるようになった。そしてなし崩し的にギリシャとの間で衝突を繰り返していたのだ。実は、彼らの進出は東方中央アジア方面にも及んでおり、先住である遊牧騎馬民族との間にも抗争を繰り返していたのである。ペルシャ人たちは、彼らを「サカSaka」と呼んだ。
その名は、ダレイオス1世が残した巨大な磨崖碑「ベヒストゥン碑文 The Behistun Inscription」にある。この磨崖碑は現イラン西部・ザクロス山脈ベヒストゥーンの絶壁に彫られたものだ。

ちなみに、彼らについては「漢書・西域伝上」にもその名が「塞(soku)」として出てくる。
「而塞王南君罽賓 顔師古注 塞音先得反」

前6世紀後半、イラン高原に興ったアケメネス朝ペルシア帝国(アカイメネス朝)は、西に控えるギリシア諸都市を攻めて領地拡大を目指していた。また同時に東方中央アジアにもその爪を伸ばした。しかし遊牧騎馬民族はクラゲのように実態がつかみにくい。とても完全制覇とはいかないまま苦戦を強いられていたようである。「サカSaka」とダレイオス1世が出会ったのはその頃だ。
ヘロドトスは、サカについて、こう書いている。
「サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルパシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスという(双頭の)戦斧を携えていた。・・・ペルシア人は彼らをサカイと呼んでいた。というのは、すべてのスキタイにサカイという名前を与えていたからである」

こうした遊牧騎馬民族が跋扈する地は大草原であり、彼らがいなければ、ただの野原だ。支配しようがない。
しかし、だからこそ。こうした大草原は中央アジアとヨーロッパをつなぐハイウェイとして大いに機能したのである。サルマタイ、フン、 アヴァール、マジャール、 ペチェネグ、クマンと呼ばれる人々は、この道を通って西進したのだ。
しかし・・ここで考え違いをしてはならない。こうした人々は騎馬を用いて大群が草原を爆走したわけではない。そんな例は稀だ。むしろ人々は、何世代もかけて少しずつ西進したのである。ヴォルガ川からドニエプル川に至る数百キロを移動するだけでも百年二百年の時間をかけ、ドナウ川に至るまでにはさらにながい時間をかけている。なぜか?彼らは家畜と共に移動する民だったからだ。常に適正な牧草地を求め豊かな水辺を探しながら進むしかない人々だったからだ。そのために部族のサイズも限られていた。これが無数の部族が併存する理由でもあった。
何時の時代でも大草原に生きる遊牧騎馬民族は、征服によってすべての民族が入れ替わるのではなく、混合し併存し、連続的な文化を紡いだのである。
こうした特異性を、ギリシャ人もローマ人も、ペルシャ人も理解できなかったのではないか?ヘロドトスを読んでいて思うのはそのことだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました