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黒海の記憶#16/商いの道・内海の還流に乗って

神話時代に夜明けが来ると、ミトレスの人々は黒海南岸にシノペ、コーカサス山麓にディオスクリアス、アゾフ海の入口にパンティカパイオン、北方の草原地帯の玄関口としてヒュパニス川(現在のブーグ川)河口のオルビアと・・次々に植民都市を建設した。ケルソネソスが建設されたのは紀元前5世紀で、黒海西岸のトミス(コンスタンツァ)、オデッスス(ヴァルナ)などの主要都市とともに交易拠点として繁栄した。

前述したがミトレスは旧い町だ。現トルコのサケイ南方にある。マイアンドロス河口にある。
町の存在の確認はミノア文明までさかのぼれる。紀元前2000年くらいだ。地中海東海岸レバント地方から海へ広がった交易は、メインクライアントをエジプトとして、その拠点をミノア島に置いた。その受け手として大陸側に自然発生的に生まれたのがミトレスの邑なのかもしれない。ミトレスは地勢的にアナトリアへの物資の輸出港として栄えた。そのミトレスが黒海沿岸に60以上の植民市を作った。アゾフ海に作られた植民地は、中でも最も重要な拠点だったのである。

この遠浅の魚影豊かな海を目指して、コーカサスの奥地から様々なものが運ばれていた。当初は始原から棲み暮らす漁民と樵る杣人の交易の地だったに違いない。ミトレスの商人たちはこれに乗ったのだ。
ディオスクリアスでは、コーカサスの杣人/アゾフの漁民と商いするために、ギリシャ人たちは最盛期130人もの通訳が雇用していたとある。ローマの歴史家プリニウスが一世紀ごろ「ファシス川にかかる多くの橋は常に市場へ向かう人びとで賑わっていた」と書いている。

しかしコーカサスの人々は荒ぶる民だった。ギリシャに奉ろう人々ではなかった。黒海北側/アゾフの内海は天然の良港に恵まれ、遠浅で魅力的な地だったが、支配し難い地だった。したがってミトレスの民以外のギリシャ諸都市の人々は同地方に大型の植民地を作れていないまま、ローマにステージを譲っている。
・・余談だが、僕は先日紀州熊野を歩きながら、同じ「荒ぶる人」の匂いを感じた。熊野には西の外れに古里古墳が一つあるだけだ。実は四国太平洋側土佐にも古墳はない。瀬戸内海側にはある。おそらく律令の時代/圧倒的な武力と先進技術を中央政権が身につけるまで、同地は不可侵だったに違いない。

その「荒ぶる民・コーカサスの杣人/アゾフの漁民」と、実に器用に商いができたのがミトレスの人々なのである。おそらくだが・・これは僕の想像だが・・ミトレスは太古から商人として、さまざまな価値観の人々と接してきた。したがって「自分はヘルメス・あとはバルバロイ」という選民意識を持たなかったのではないか?「商いを成立させること」そのことを最も重要なこととしていたのではないか?
再三書くが交易は・・もっとも確実な平和をもたらす方法だ。植民地は違う。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました