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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#03

再度、石川手記に戻る。
2月25日の石川手記である。
「14時13分空襲警報が再び鳴り渡り、愈々B 29艦載機と合同にて帝都を襲い、猛吹雪の中随所に盲爆が展開されだした。東部軍情報部は,ラジオを通じてかん高い声で“敵は爆弾と焼夷弾を混用しつつあり軍官民の敢闘を望む”と叫んでいた。
14 時23分宮城前広場の高射砲陣地から発砲、14時29分警視庁上空に於て彼我猛烈に交戦中、宮城内に爆弾及焼夷弾が投下されたと,警視庁屋上の防空監視隊より報告がある。
畏れ多くも宮内省主馬寮、局寮に投弾された。
猶大宮御所守衛所,秩父宮殿下表町御殿にも投弾された。」

当日動員されたB29は229機。彼らが搭載していた投擲用爆弾は90%が焼夷弾だった。
爆撃された地区は、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区と広範囲で、死者は195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸だった。死者数は、ひと月前1月27日に実施された「銀座空爆」より少なかったが、家屋の損害は甚大だった。日本の木と紙と漆喰で出来た家が如何に脆く燃え尽きるかを証明してしまう攻撃となった。
・・ちなみに「銀座空爆」とは・・1945年1月27日に実施されたものだ。「欄外」として同日の銀座泰明小学校が受けた直撃弾3発によって亡くなった教諭たちの話を2回に分けて書いたので、ぜひお読みください。
・・ところで。気が付きませんか?空爆により灰燼と化した地域が殆ど関東大震災の時のものと同じことを・・米軍は東京空爆に際して、関東大震災で「確実に」燃えた木と紙と漆喰の家が立ち並ぶ地域を研究し、これをなぞったのです。

この「銀座空爆」も米軍第22爆撃機団によって行われたもので、指令者はカーチスルメイだった。こちらも当初の目標は中島飛行機武蔵製作所だった。しかし天候が悪く、目標が目視できなかったので、爆撃しないまま帰還となったのだが、その途中、まったく思い付きのように搭載していた焼夷弾500lb/250kg弾を無目標のまま銀座有楽町地域にふり撒いたのである。このときの死者は539人、負傷者1,064人、全半壊家屋は823戸、全半焼家屋418戸、罹災者4,400人だった。

石川手記2月25日を続ける。
「15時40分、秋山刑事部長と共に吹雪を衝いて神田方面の猛火の中に自動車を飛ばす。警視庁を出ると神田方面は天を焦す猛火が一帯にひろがり、宮城内よりの火の子が警視庁方面へ無数に飛来し、それに加えて吹雪倍々激しい。
宮城前に自動車を一旦停車せしめ、秋山刑事部長と共に下車して宮城に向って最敬礼を行い、陛下の御安泰を祈念した。 全く畏れ多い極みだ、宮城石崖上の数多い老松も燃えている。口惜し涙が頬を伝う。坂下門の家屋も猛烈に火を吹いており,右方を見れば大手町も大火災,警察協会も盛んに燃えている。
中央気象台脇の橋のところまで来たが、これより先は猛火で車は進まないのでここで車を降り、火の中をかいくぐって神田錦町警察署に到達する。
署内は戦場のような騒ぎで、加地宗三郎錦町警察署長陣頭指揮の許に一糸乱れざる警防態勢が布かれていた。2階に上ると宿直室に加地署長の奥さんが、署長官舎で一生懸命防火に奮闘していたが遂に延焼してきたので避難してきましたと言って、僅かばかりのものを入れた風呂敷包を抱えて座っていた。髪も乱れて防空頭巾を背にモンペ姿の奥さんは、それでも元気に話しておられた。
署の2階訓授室から表通りを見ると,すぐ前の道路を距てた署長官舎から猛烈に火をふきあげていた。
加地署長以下署員、警防団員を,秋山刑事部長と共に激励して表に出た、再び煙にむせ、火の粉を払いのけながら司町まできたが,この辺は既に四囲火の海でもうこれ以上進めない、仕方なく刑事部長と手をとりあって乗りすてた車の置場まできてみると,そこに車の姿が見当らない、尤もその辺一帯も火の海だ、首筋がさっきからヒリヒリするのでよく見ると、火の粉で火傷しているらしい.着ている外套も重く感じられる。 」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました