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本所話・欄外書き散らし/既視感deja vuと未視感jamais vu

ボルドーという街は悠久の大河ジロンド川の広大な湿原地帯に作られた全くの人工都市だった。つくったのは、スペインとの戦争で狩りだされた非ローマ人たちである。彼らは一所・懸命で退役後。スペインの国境に土地と恩給を受けた。彼らはそこでブドウを育てワインを作った。
買ったのはローマの商人だった。彼らはそのワインをイベリア半島をぐるりと回って北のケルト人ブリテン人に売った。その専売に風穴を開けるべくピレネー峠を越えて、新しい交易地を/ケルト人との直接交易を目指して作られたのがボールド―という街である。
したがってボルドーは長い間治外法権であり、フリーポートだった。しかしカエサルのガリア戦争がきっかけとなって、同市はローマの完全管理となった。
ところがボルドーには「ローマ街道」がない。ローマ街道はサントSaintesとリオンLyon(Ricomagum)を結んでおり、ボルドーの商人たちは中央フランスと商いをするためには、同地まで商品を運ばなくてはならなかったのだ。なぜボルドーに東へ向かう街道がなかったのか?ボルドーの東はあまりにも山険しくとても街道が敷設できる地区ではなかったからだ。ドルドーニュ川に沿って交易地が広がっていくには2000年を要した。・・ちなみに人類史において同地区は極めて重要だ。クロマニヨン人の里だからである。ヒトは長い間「狩る者」ではなく「狩られる者」だったからだ。彼らは山深い天敵のこない地に生きていた。
かくしてボルドー(アキテーヌ地方)とブルターニュ地方は、ジロンド川を挟んで併存していながら、ボルドー文化圏が川を渡って北へ北へ広がることで大きな産業圏として育っていく方向へ進んだ。恰も江戸が隅田川を渡って下総へ広がったようにだ。
もともとブルターニュはケルトの地である。ガリアの人々が跋扈するところだ。ガリア王国があり、ローマに奉ろわぬ人々が王国まで建てた地だった。それがローマによって組み伏せられた後は、ボルドーの商業圏へ取り込まれていったのである。
ローマが分裂し、西ローマが解体した後も、ボルドー(アキテーヌ地方)とブルターニュ地方の関係は続いた。中央の動乱に関係なく、ボルドーは地中世界と北海ブリテン・バルト海西南岸に勃興した産業を停滞することなく繋いだ。支配者に関係なく商いは守られたのだ。

家康入城後、江戸周辺・関八州には、再度突出したアイコンとなるべき指導者は出なかった。由井正雪さえ出なかった。幕府直轄の地として徹底的に管理される場所になった。その力関係は現在まで変わらない。関東5県は際立った独自性を持つことなく、今も中央に隷属している。
とくに戦後・・東京への通勤が確立すると、都内で働く人々は都心を中心に60km圏内に拡散した。これが拍車をかけた。
もちろんだからと言って御朱引内15区生まれの15区育ちの人々が拡散したわけではない。拡散したのは全国から流入してきた「団塊の世代(非ローマ人)」とその子らである。薩長の侵攻により武家の大半が居なくなった後を、青雲の志で地方から移り住んできた若者が埋めたように、大東亜戦争で半減した東京を埋めたのはこうした「団塊の世代」である。
彼らは似非東京人(似非がいつのまにか似非でなくなるのは世の常だ)として「東京類似語」を話し、東京人的気質に感化され恰も東京人のような振りで生きる。こうした人々で、関東5県の「東京化(非ローマ人によるローマ化)」が猛烈な速度で行われたのである。

・・以前に書いたが、彼らは特有の言語体系をもつ。東京語の類似語である「首都圏語」だ。"だ体"と敬語の代理である"ですます体"そして柔軟に取り入れられた各地の方言を織り交ぜた特有の言葉だ。敬語を重要視する「東京語」親しみさの距離を重要視する「下町言葉」とは似て非なる言語を、こうした団塊の世代の子らは駆使する。それがTVなどのメディアによって全国的に拡散されて、日本語の供用語化されているのが現在だ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました