悠久のローヌ河を見つめて10/グルナッシュは何処から来たか
1200年代、アラゴン王国連合時代にランクドック・ルションへ持ち込まれたグルナッシュがローヌ川以東まで広がったのは、あの地方特有の北風ミストラルに耐えられる強靭な品種だったからだろう。
地中海から吹き付けアルプスにぶつかって反転し、猛烈に冷たい烈風として吹き荒む北風ミストラルは、温暖性の葡萄の木にはとても厳しい。あの、添え木なしで自立しているグルナッシュの姿を見ると、まるで風雪に耐える哲学者のようだ・・僕はいつもそう思ってしまう。
そしてその味は・・穏やかで・濃厚で・甘味立つ。まさにフェニキア人たちが地中海南ルート/北アフリカ沿岸ルートで持ち込んだ葡萄そのものである。
しかし、かなり遅咲きで初霜には弱い。したがってローヌ川を北上するには限界がある。ローヌワイン特有の黄金のGSM比(グルナッシュ・シラー・ムールヴェードル)で同地域を見つめても、北に行けば行くほどグルナッシュは減り(ムールヴェードルは激減)寒冷耐用種であるシラー中心になる。
それでもローヌワインがGSM比を保持しようとするのは、やはりシラーとの相性が絶妙で有り、全く異質な互いの魅力を相乗的に引き出すからだろう。
さて。このアラゴン王国連合時代に持ち込まれたグルナッシュという葡萄だが、何処が原産だろうか。葡萄の名前は、特に古種はその原産地の名前で呼ばれる。シラーは、黒海南東部のシランの葡萄だし、ガメイはボージョ伯の地・ガメイ村から広がった葡萄だ。
ワイン学者ロジェ・ディオンは「グルナッシュはグラナダから来た葡萄である」と喝破する。
僕もこの説を採用したい。
だから此処ではグルナッシュ=グラナダ産の葡萄と云うことで話を進めたい。
ロジェ・ディオンは、グラナダGranadaの古名フランス語読みがグルナッシュGrenacheあるいはガルナッシュであるという。なるほど。ちなみにグルナッシュのスペイン語名はガルナッチャGarnachaだ。なので、ザクロGranadaを語源とする説もあるが、まさにこのザクロこそグラナダのシンボルであり、グラナダ原産の果実なのだ。やはりロジェ・ディオンの説のほうが説得力があると僕は考えてしまう。
グラナダはヘニル川流域に広がるベガ平野に位置する古都だ。僕自身は思う所が有って、アルハンブラ通いのためにホテルアルハンブラに2週間ほど暮したことが有るのだが、そのとき、市内と周辺の葡萄農家も彷徨しながら痛感したのは、何とも肌触りの悪い歴史の重さだった。傷深く・・と言いたくなるほど、モスレムとキリスト教が互いを否定し合った・・そのままを背負った町のように僕には見えた。
この地で滅んだ最後のイスラム王朝ナスル朝の末路については、どこかで書いてみたいと思うのだが、ここでは「サクロモンテ洞窟博物館」の名前を出すこと。そして同地ではモスレムとロマ(ジプシー)の邂逅が余儀なく有ったと云うことだけを書いて、それ以上の話には触れないでおこう。ベガ平野に広がる葡萄畑だけを見つめよう。
グラナダで、ワインに関する遺跡を歩くと旧いローマ時代の遺跡に数多く出会う。1800年ほど前のものだ。もちろんワインのための葡萄の木をフェニキア人が持ちこんだのは、それより500年ほど前だから、詳細に訪ねて歩けば、彼らの残した雫を発掘したものを見ることも可能なんだろうけど、僕らはグラナダ考古学博物館Archaeological Museum of Granadaへ出かけることくらいで、とりあえず満足しておく方が良いかもしれない。
現在でも、グラナダで栽培される葡萄はグルナッシュが多い。他の世界種と共にしっかりと地元に根差している立ち姿は、なかなか素晴らしいと思う。
この、「グルナッシュ」という葡萄の名前だが、フランス側の資料の中に出てくるのは、1300年代になってからである。
1321年に出されたパリ高等法院の判決の中に「グルナッシュワインとギリシャワインの積荷について」のものがある。おそらくこれが初出だろう。続いて1337年に出された「パリで売られるワイン」についての王令の中にもグルナッシュの名前が有る。また同時期にジャン・ド・ジャルダンが書いたパリについての文書の中にも「ラ・ロシェル/ガスコーニュ/ブルゴーニュのワインと共に、ギリシャやガルナッシュのワインがセーヌ川によって大量にパリへ運ばれている」という記述が有る。おそらくこの時期、急速に認知された葡萄なのかもしれない。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました