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勝鬨橋と晴海通り#04

1928年(昭和3年)12月24日に特別都市計画法が公布がされた。これにより東京と横浜の都市計画が規定された。
この復興局がまとめた復興事業の進捗状況の報告書を見てみよう。
後藤新平がどんな夢を描き、どんな夢を叶えたかが伺える。

復興事業として、市内区画整理、幹線道路の整備、橋の整備。そして水道管、ガス管、電線、電話線などの整備。河川や運河の整備、公園の整備、ゴミ処理施設、衛生施設、教育施設(復興小学校など)の整備を行ったことを報告している。

幹線道路は52本。帝都を横断する昭和通り。帝都を縦断する大正通り(現靖国通り)をはじめ、東京を現在でも支えている基幹道路はこの時に整備されたものである。晴海通りもそうだ。
また「震災復興橋梁」と呼ばれる9つの鉄製の橋が作られたのもこの時である。隅田川に架かっていた木製の橋は殆どが焼け落ちてしまった。このうち、両国橋、厩橋、吾妻橋は国によって造られた橋で、相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋などは東京市によって造られた。
同時に「震災復興公園」として隅田公園、浜町公園、錦糸公園が造園された。

震災で焼失した小田原町(現築地)は三年ほどで道路拡張が為された。銀座から真っ直ぐな道が出来上がった。
月島側も震災の被害は甚大だった。2号地(勝どき)の倉庫街も例外ではない。二小も焼け落ちた。
復興局は、ここも整備し直した。倉庫は横に払われて、清澄通りと交差する道路を敷設した。この道はそのまま4号地(晴海)とも繋がるものだった。黎明橋も整備された。

こうして1930年までに、10年後に勝鬨橋で繋がる晴海通り(現都道304号線)が完成したのである。
しかし・・僕はなぜ、復興局がここに新らしい橋を架設しなかったのか?後回しにしたのか?そのことを考えてしまう。
明らかに築地側と勝どき川が繋がることを意図した道路工事だった。なぜ架橋されなかったのか?あるいは出来なかったのか?

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました