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ボージョレーのキリスト教による霊的支配/beaujoLais nOuVEauに秘められたLOVE#05


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さて。少しキリスト教の話をします。ヨーロッパ史/ワイン史をみつめようとすると、どうキリスト教を俯瞰するかが、とても重要なものになるからです。ワインについて知ろうとすると、結局甘いのしょっぱいの話では収まらなくなる。背景にある西洋史/とくにキリスト教史の素養が必須になります。
それなので、ちよっとだけ復習しましょう♪

キリスト教とは何か。
キリスト教はローマ時代、パウロという男が始めた都市型新興宗教です。パウロは、その信仰の中心に30年ほど前に死んだ「ナザレのイエス」という男がした預言を置いた。預言者とは、神の言葉を預かった者を指す言葉です。予言者ではない。

パウロの発想は、とても革新的でした。ベースになっているユダヤ教は、神に帰依することで神に守られ、ご利益があるという考え方ですが、その受益が請けられるのは、神がご指名したユダヤ人だけ。というものでした。
パウロは、これを拡大解釈した。神に帰依すれば、ユダヤ人でなくても神は守ってくれる。そうしたのです。このパウロの説法は、強くローマの低層階級に支持され、瞬く間に広がりました。
ローマの施政者は、はじめは戸惑い、この新興宗教を弾圧します。しかし後半から考えを変えます。それほどまでに強く帰依するなら、これは低層階級の連中用・人心掌握ツールとして利用できる。そう踏んだのです。こうしてパウロの作った新興宗教・キリスト教は、ローマの各都市で公的に認知され布教活動が出来るようになりました。

ところが、その布教活動の中で各地に「俺、キリストの直弟子だった」と言い出す者が現れてしまいました。もちろん事実を確認する方法はありません。もしかすると「キリストには遇ったことない」と公言していたパウロは、実は腹の中では彼らのことを苦々しく思っていたかもしれません。いずれにせよ、パウロは彼らを排斥することが出来なかった。パウロは、ローマで都市型の宗教団体を経営する男だったからです。地方で展開されている同音異工のキリスト教のことまでは、とても手が回らなかった。それに実は彼が始めた、この新興宗教には致命的な欠陥が有ったから、そうした地方で、彼が意図せぬ展開が有ったとしても何もできなかったのです。


その致命的な欠陥というのは。ナザレのイエスについて書かれた公的な文書が何もないということです。ローマ施政官が管理して行われたゴルゴダの丘での処刑さえ記録が残っていない。ナザレのイエスの説いたという教えに反論したというユダヤ教からの書面もない。有るのは、彼に逢った、彼の話を聞いたという、すべて彼に帰依した人々からの話だけなのです。ナザレのイエスなる預言者が、本当にいたのかどうかは、今でもまだ闇の中です。判らない。

その次々と登場した「直弟子」の中で、パウロが展開する都市型宗教としてのキリスト教とは違うマーケットを求めた人間が出てきます。ペテロです。 彼は、既にパウロと他の直弟子たちが完全掌握していた都市部では、布教活動をしませんでした。彼は「修道院」なるものを作り、都市から離れたところで布教活動を行いました。そしてその修道院で生産された修道士たちが次々と各地へ広がり、パウロ型でない布教活動を行ったのです。
エウロパの大地、ガリア人の里を、次第に平定しつつあったフランク王国が利用したのは、こうして各地に広がりはじめていたキリスト教修道院でした。各地で、既に彼らによる集落/村は形成され、土地の人(大半はケルト人)はキリスト教化されていました。フランク王国は、これを飲み込むことで併合を容易にしていったのです。
これはキリスト教団にとっても有り難い話でした。実は、ローマ帝国が凋落し、解体に向かうと、ローマの都市型キリスト教にも、共倒れの可能性が生まれてきていたからです。フランク王国がキリスト教を利用するのは、大歓迎でした。こうしてフランク王国と手を取り合って、キリスト教は広く深くエウロパの地に根付いていきました。

もうひとつ理解しておくべきは、この方向修正でキリスト教自身も変わっていったことです。本来はユダヤ教の一宗派ですから、思想の根本原理はユダヤ教のままでした。偶像崇拝はない。しかしケルト人/ゲルマン人に布教する中で、彼らが昔から持っている宗教を取り込まなければならなかった。これがマリア信仰やキリストの像。さまざまな祭事が生まれていった理由です。キリスト教は、宗教として生き残るために、その姿を大きく変成していったのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました