見出し画像

塞納河古書巡礼

ブキニストの歴史は旧い。
グーテンベルクが発明したと云われている印刷技術は、ほぼ半世紀あまりかけて産業として確立し、ドイツ/フランス/イギリスなどで、さまざまものが紙の書物として流布されるようになった。1400年代半ばのことである。
それまで書物と云えば羊皮を利用し、手書きで書き写すしかなかったのだが、活版印刷機械/インク/書物用紙の開発によって、大量生産が可能になり価格も猛烈に下がり、書物は教会と王家/大学の専用物ではなくなったのが15世紀だった。ちなみに1500年以前までに印刷された書物はインキュナブラincunabula(揺籃期本、初期刊本)と呼ばれ、どれも貴重書であるため莫大な古書価がつくこともままある。当時の印刷物は、聖書を始めとする宗教書が半数近くを占めており、活版印刷による聖書の普及は、マルティン・ルターらによる宗教改革につながっていく。しかし時代を経ると宗教書に限らず、学術や実用書などあらゆる分野の印刷物が激増した。16世紀は書籍の時代だったのだ。貴族や金持ちたちは、こうした本を装飾品のように集め、壁に並べて飾った。

1578年、「セーヌ川に新しい橋を架けよ」という布令をアンリ3世が出した。閑静にしたのは1607年。ポンヌフPont Neuf「新しい橋」と呼ばれた。現在、パリに残る最古の橋である。
当時、最新の施設だったこともあって、忽ちポンヌフはパリの市民たちが散策する名所になった。となればそんな人々を目当てに行商が出る。そんな行商の中に、手押し車に古書を載せて売る者が現れた。
行商は農夫たちの農閑期の仕事である。荘園制度から開放された農夫たちは、自由に糧を得る手段として行商ができるようになっていた。多くは自前の農作物を売って歩いていたのだが、ある程度金を持っている農民は、装飾品などを仕入れてそれを売って歩いた。そのひとつが古書だったのだ。

当時、書物は金持ちが部屋に飾る最もお洒落な贅沢品だったこともあって、ポンヌフの橋の上に並ぶ露店(手押し車の)は、いつのまにか古書を商う者で占められるようになった。まったく「もんじゃ通り」にさも似たりだ。ソレをお目当てに人々が集うようになれば、通りはソレ一色に染まるものだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました