東京散歩・本郷小石川#15/本郷小石川上野台地から浅草を見つめる#02
古代のトンビな僕は、本郷小石川上野台地上空を飛びながら、東南の江戸湊の中に胡人によって開墾された「浅草」を視つめてしまう。胡人ら渡来人が跋扈する巨大な振興産業地だ。
草深い武蔵野の向こうに唐突に輝く・・マンハッタンのような地・浅草、である。
その隆盛ぶりを、鎌倉時代の真言密教の学僧だった金沢称名寺の僧剣阿(吉田兼好との交友で著名)は房総からの帰路、浅草寺に詣で「雁塔高く聳え・・・・・・香煙細やかに昇って・・・・・・仏閣これ浅草」と記している。
また「とわずがたり」後深草院二条(正応三年/1290)に「あさくさと申たうあり、 十一めんくわんをんのをはします、れいふつと申もゆかしくて、今はもう川がなくなった小石川のまゐるに、なかをはるくとわけゆくに、はき・をみなべし・おき・すすきよりほかは、またまる物もなく」とある。
この浅草と中部日本(その向こうには京がある)を結んでいたのが豊嶋氏が支配していた本郷小石川上野台地だった。浅草へは此処を通る道が使われていた。
少し時代が下って室町時代、京都聖護院の僧・道興が諸国巡礼の旅をしている。彼の残した道中記「廻国雑記」に「小石川といへる所にまかりて、我方を思ひふかめて小石河、いつをせにとかこひ渡るらん」という記述がある。これが小石川の初出といわれている。また江戸城へ太田道灌を訪る条に「道すがら名所ども尋ねける中に、忍の岡といへる所にて、松原の有ける陰に休みて霜ののちあらはれにけり時雨をば忍びて岡の松もかひなしこを過て、小石川といへる所にまかりて我かたを思いふかめて小石河いつせにとかひわたるらん。とりこえの里といへる所に行くれて春にけり宿りいづくといそぐ日にしのぶのお」とある。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/885774
また、室町時代中期の天台宗の学僧・堯恵法印が残した道中記「北国紀行」には「同月(文明一九年正月)の末、武蔵野の東の界、忍岡に優遊し侍。 鎮座社、五条天神と申侍おりふし枯たる茅原を焼侍り。契り置て誰かは春のはつ草に忍びの岡の露の下もえ並びに湯島といふ所あり。古松遙かにめぐりて、しめの内に武蔵の遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず。これは北野御神と聞えしかば、忘れずば東風吹むすべ都まで遠くめのそでの梅が香」とある。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM...
隆盛誇る浅草や太田道灌の江戸城下に比して、いかに鄙びたところだったがよくわかる。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました