見出し画像

夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩3-1-3/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つめる#02

https://www.youtube.com/watch?v=2wVobgZtyz4

「ふうん。Cryptoportiqueはレミ族の城塞都市だったわけね」
「ん。それから始まった。紀元前450年からのようだ。 学者たちは「ラ・テーヌ文化」という。ハルシュタット文化を継いで、いまのフランス東部からライン川中流域、ドイツ南部に広がった文化だ。この辺りのコアパーソンは北から降りてきたレミ族だ。
レミ族は商いの相手として大西洋岸に沿って北上してきたローマ商人と、早い時期から商いをしていたんだ。その意味では文化として開けていたのかもしれない。おそらくローマとの混血も有ったかもしれない。その意味では、レミ族はローマの何んたるかを知悉していたわけだ。
そのローマがローヌ川を北上し陸側から交易範囲を広げ、交易を超えて領土の拡大をし始めると、レミ族は他のガリア人一族とは違って抵抗体質にならなかったんだ。おそらく言語も文化もローマがレミ族には浸透していてたんだと僕は思うな。
北にもローマ街道が敷設されるとき。その南北の交差点がランスが置かれたのは、とても深い意味が有ったんだと思うよ。パリ盆地北東部でランスが一番早くからローマ化され、ローマ人の町になっていったんだ」
「そんなにランスって価値が有ったの?」
「セーヌ川に繋がるマルス川が大西洋へのロジスティックスとして大動脈になっていた。パリもそうだけどね。セーヌ河やモーゼル川が重要な意味を持つ。ローヌ川もそうだ。ローヌはリヨンで大きく右へレマン湖のほうへ曲がるが、アレはアルザスで採掘した錫や鉱物を地中海に運ぶために利用されたんだ。」
「ジュネーブ・リヨン・アルルという道ね。前にジュネーブでリヨン行きのTGVに乗った時、あなたが言ったこと憶えているわ。この鉄路は途中までローマ人の道を辿るって」
「ん。あのTGVはローヌ川に沿ってそのまま走らないで、途中からショートカットで山間部に入るからな。まあ、美し景色だが。そのローヌ川というロジスティックのおかげで、リヨンはガリアにおけるローマの一大拠点になったんだ。ところでもう一つ大きなハブがあった。どこだと思う?」
「ボルドーでしょ?ローマ軍の退役軍人たちが作った街」
「ん。そうだ。ローマの商人たちは、鈴を買うために先ずイベリア半島に交易を始めた。そしてその拠点は半島をぐるっと回って欧州大西洋側そしてブリテン半島に交易所を始めたんだ。彼らが通貨として利用したのはワインだった。当初はワインをイタリアから運んでいたが、イベリア半島のために集められたゲルマン人などの傭兵たちが退役すると、ナルボンシス・・いまのマルセイユの近くでワイン畑を始めた。ローマの商人たちはこれを叩き買いしてケルト人たち用に使ったんだ。?ローマ軍の退役軍人たちは面白くなかった。それでピレネー山脈を越えてボルドーに自分たちの街を作った。そこでケルト人たち相手に自分たちでワインを売った。それがボルドーのはじまりだ。ボルドーはケルト人と、他の各国から集まった職人/パン職人はギリシャじんだったし、樽職人はガリア人だったし、彼らが集結した多民族国家だったんだよ」
「ランスもそうだったわけ?」
「ん。ただしリヨンやボルドーに比べるとケルト人の気質が強い街だった。ケルト人は原則自律自尊でね、ローマに奉ろわぬ人々だったんだ。
カエサルが、抱え込んでしまった借金地獄から逃れるためにガリア征服に出た時、彼はランスを目指している。ランスはレミ族の統制下に有った。
大半のガリア人がカエサルに抵抗したが、レミ族はカエサルに従ったんだ。
かれらは「ランスは古代ローマの創始者の弟であるレムスによって作られた」と言ってる。これは恭順の証だな。しかし文字は持たなかった。だから彼らによる史料はなにも残っていないんだ。出土物しかない」
「ときどき文字を持たない文明・・という話があなたの話の中に出てくるでしょ?どうして文字無しで文明が守れるのかしら?不思議でならないわ」
「文字の目的は"記録"だ。記録する必要がないなら文字はいらない。あるいは精緻な記録をする必要が無ければ、それほど厳密な文字はいらない。それと・・文字は太古呪術に深く関わっていたからな。文字は祝と呪だったんだ。」
「わ。なんかすごい話になりそう」
「文字の"記録"という機能は副次的なものだった。祝と呪を司る縁/ENISHIとして文字を使わない人々には、文字を"記録"として使用するという発想もなかったんだと思うよ。ラスコーの洞窟を思い出してごらん。アレが文字の始まりだ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました