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黒海の記憶#17/商いの道・内海の還流に乗って#02

アゾフは遠浅の海だ、とくに北西部が浅い。そのため大型船の接岸は難しい。なので勢い良港はクリミア半島外縁部に作られることが多かった。
とくに現ドニエプル川Dnieper /ボリュステネス川は最も栄えた港/交易地だった。始まりは、当時まだ島だったベレザーニPirezinに交易のための拠点と貯蔵所を置くことから始まったようだ。周囲を海で守られていたため、蛮族による襲撃を受けることがない天然の要塞だったからだ。
やがて内陸部の種族との間に信頼関係が築かれていくと、ギリシャ人たちは少しずつボリュステネス川に沿って幾つもの集落が立ち上げていった。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはその書「歴史」の中で、このボリュステネス川の重要性について熱く語っている。そして、このボリュステネス川に対してほぼ90度の角度で黒海に流れ込む南ブーフ川Buchである。
ギリシア人はギパニス川と呼んでいた。曲がりくねる川という意味だ。長く大きなブーフの湿原を蛇行する川だったからである。それだけ魚影も多く、周辺の農作物も豊富な地帯だったので、河口にあったオルビアは最盛期一万人近い大都市になっていたという。

特筆すべきは、ギリシャ人にとってこの町は金細工の街だったことだ。彼らが作る宝飾品は、異郷(コーカサス)の意匠とギリシャの典型的なデザインを融合させたもので、その特異なデザインは大いに持て囃されて、産業として栄えた。僕らはこれをアテネやウクライナ、ローマの美術館/博物館で見ることができる。残念ながら、僕はウクライナ、ローマのものは未見だが・・
神話時代の夜明けが晴れてギリシャの商人たちが無数に黒海北側から内陸部に入り始めると、ドナウ川のデルタにあるイストリアIstriaやトミス(現コンスタンツァConstanţa)が誕生する。
これらの都市は農作物と奴隷が主要取扱品目だった。英語で奴隷はslaveというがこれはまさにスラブ人のことを指す。

また、ボスボラス海峡を目指す船団の中継点としてオデッスス(現ヴァルナVarna)が栄えた。
こうした黒海沿岸の商い/交易が盛んになると、同時にメセンプリア(現ネセブル)アポロニア(現ソゾポル)という、陸路でも十分交易可能な地域にあった都市も、海路陸路を利用して商いを始めるようになっていく。
同地方は非ギリシア系のトラキア系部族の暮らすところだ。トラキア人Thraciaについて、ヘロドトスは「歴史」の中で、彼らの奇習(火葬、一夫多妻、人身御供、子売りなど)について書いている。ディオニュソス信仰が盛んな地だった。
本来はギリシャ風には奉らわぬ民だったが、黒海沿岸の諸都市において同系であるゲタイGetaiの民が大いに繁栄している様子をみて、二匹目のドジョウを追って熱心にギリシャ諸都市を相手に商売をするようになっていく。
こうして500年あまりの時間をかけて、黒海沿岸に次々と作られたギリシャ人による植民都市は、エーゲ海側のギリシャ諸都市にとって極めて重要な位置を持つようになっていった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました